セクハラ かがいしゃが 「みんなに したわれているから」と よーごされてる けん

 「みんなから したわれてる」とか「にんきが ある」とか、そりゃ けっこうな ことでわ ございますけれど。
 しかし、しゅうだんの なかで おおくの ひとに 「すかれる」「にんきが ある」という ことが、たにんに ちからを ふるう ときの しげん(資源)にも なりうるのだ という ことわ、よくよく ちゅーい されるべきだと おもう。


 「ぼーりょくの かがいしゃ」というと あまり 「しゃかいせー」の ない タイプの ひとが いめーじされる ことが おおいんじゃ ないだろうか? 「しゃかいせーが ない」というのわ、あまり ひとづきあいが うまく なくて ひとりで いる ことが おおい タイプだとか*1、あるいは、いかにも そぼーで こーげきてきで ちかづきにくい かんじの タイプとか。
 はんたいに 「にんげんてきな みりょく」の ある ひとが ぼーりょくの かがいしゃに なる ことわ、ちょっと いめーじ されにくいような きが する。


 でも、「しゃかいせー」の ない ひとより、むしろ それが あって まわりから 「みりょく」の ある ひとと すかれて いる タイプの ほうが、たにんに ちからを ふるい やすい じょうけんが あるのだと いえるだろう。
 たとえば、いじめや さべつ、また せくはら といった ぼーりょくわ、それを もんだいに しない ぼーかんしゃや、あるいわ せっきょくてきに ぼーりょくに かたんする「なかま」との きょーりょくに よって ふるわれる ことが ほとんどであろう。だから、「しゃかいせー」が あって、「なかま」を つくる のーりょくに たけた ものの ほうが、ひかくてき ぼーりょくを ふるい やすい じょうけんが ととのって いるし、しかも ひがいしゃに こくはつされても 「なかま」たちに まもって もらえる かのうせーが たかい。そう いっても いいすぎでは ないような きが する。


 さて、そう かんがえた ときに、わたしわ つぎの きじが ふゆかいで なりません。


仰天!小学校「セクハラサイコロ」事件の真相 作成、行使の教諭「金八以上」と児童・保護者・卒業生が擁護 (1/5ページ) - MSN産経ニュース 


さいたまけんに にちじょーてきに こどもたちに せくはらを してる しょーがっこー きょーしが いました。
    ↓
もんだいが はっかくし、てれびや しんぶんで ほーどー されました。
    ↓
おしえごや その ほごしゃ、かつての おしえごが、よってたかって せくはら かがいしゃを よーごし はじめました。
    ↓
かがいしゃの きょーしわ 「じぶんの クラスの じどうの ほごしゃに しんじて もらえたら、それで いいんだよ」などと ゆーてる そうです。


 いやあ、ひとから しんらい されるって だいじですねー。たすうはに にんきが あると とくですねー。
 りんくした 『さんけい しんぶん』の きじでわ、もんだいが はっかく した あとに がっこうが こどもたちに おこなった アンケートで 33にんの うち、ふたりが「きもちが わるい、いやだ」と こたえて いる ことを しょーかい しながらも、いかに この きょーしが 「いい せんせー」と したわれて いたか、ほごしゃや そつぎょーせいの こえを めいっぱい あつめて きょーちょー して います。それどころか、もんだいが はっかく した けいいが 「ふかかい」だ などと かき、いかにも じけんが ひがいしゃ いがいの じんぶつに よって ふれーむあっぷ されたかの ように におわす ことさえ して おります。
 これじゃー、かりに ひがいしゃが こくはつ したとしても、ひがいしゃの ほうが 「わるもの」に されて しまいそーな いきおいです。
 『さんけい しんぶん』に よると(まぁ この しんぶんの ことですから しんぴょーせーわ あまり たかくないですが)、かがいしゃわ つぎの ように かたって いるのだとか……。

「じぶんとは ことなる ぶんかや じんしゅを はいじょ する ような にんげんには なって ほしくない。だから おれは、へんじんで いながらも すかれる ような きょーしで いないと いけない」


「じぶんとは ことなる ぶんかや じんしゅを はいじょ する ような にんげん」と まわりから みなされず、ひがいしゃが こくはつする ときの はーどるを たかめて おく ためにも、「すかれる ような きょーしで いないと いけない」ですね。

*1:とーりまの さつじんなどの ほーどーで、 しばしば かがいしゃの 「しゃかいせーの なさ」が やたらと きょーちょーされるのも、それが いっぱんてきな 「かがいしゃ」いめーじに いっちするからって ことも あるんじゃ ないかしら?

よぞらの つきを さす ゆび

 「ちえの ある ものが よぞらの つきを ゆびさす とき、おろかものわ その ゆびを みて いる」
 どこかの くにに そんな ことわざが ある という はなしを どこかで だれかから きいた おぼえが ある。からの くにの ことわざだと きいた ような きが するが、からの くにに ほんとうに そんな ことわざが あるのか どうかわ、しらない。わたしにわ からの くにの もじわ よめないから。
 ともかく、この 「おろかもの」と される ひとは 「ゆび」を みるのを やめなければ、それが さして いる「よぞらの つき」を みる ことわ できない。「よぞらの つき」を みる ことが できたなら、その とき 「ゆび」わ 「おろかもの」の めから きえさって いる はず。
 しかし、この「おろかもの」と される ひとが 「おろかもの」でわ なく なる という こと、この ひとに とって ちえの ある ひとの 「ゆび」が みえなく なる こととわ、どういう ことなのだろう?




 《もじ》と 《いみ》、あるいは 《こえ》と 《いみ》の あいだにも、ちえの ある ものの 「ゆび」と 「よぞらの つき」の あいだに あるのと にた かんけいが ある。
 《もじ》の かたちや せんを いしき して いる かぎり、その 《いみ》を うけとる ことわ できない。わたしたちわ 《もじ》を すかす ようにして、その むこうの 《いみ》を みて いる。むこうから 《いみ》が とどいて いる とき、その てまえに ある はずの 《もじ》わ いしきから きえさって いる。
 《もじ》わ まず 《いみ》を みる ことを さえぎる ふとーめいな かべの ような もの として ある。わたしに とって みしらぬ 《もじ》わ、《いみ》を つたえる めでぃあでわ なく、《いみ》に たどりつくのに たちはだかり、《いみ》と わたしを へだてる かべとして ある。《もじ》が かべである ことを やめて とーめいに なった とき、はじめて 《いみ》が やって くる。
 また、《こえ》の むこうの 《いみ》を うけとって いる とき、《こえ》は ききての いしきから しりぞいて いる。わたしが なにを いって いるのか、その 《いみ》が あなたに つたわって いるなら、その つたわって いる ぶんだけ、あなたには わたしの 《こえ》が きこえて いないのだろう。




 「ひとの はなしを きく」という ことを、あいてから ただ 《いみ》だけを うけとる ことだと とらえるのわ、ひどく みがってな かんがえだ。あなたに むかって 「きみの いいたい ことわ わかる」などと いう ものわ、かならずしも あなたの 《こえ》を きいて いない。「いいたい ことわ わかる」と いって いる にんげんわ、かれの あたまの なかで おのれの みがってな 《いみ》を こねまわして いる だけで、あなたの 《こえ》を きく つもりすら ないかも しれない。
 《いみ》わ、それを あたまの なかに たっぷり つめこむ ことで、おのれの ぜーじゃくな えごを まもって くれるかの ようだ。いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ……。あたまんなかに あるのは おのれに つごうの よい 《いみ》ばかり。
 わたしたちの えごにわ、たにんの 《こえ》を けしさって、じぶんに とって つごうの よい《いみ》だけを うけとろうとする よくぼーが たしかに ある。えごわ かんねんの ていこくを ゆめみる。《こえ》と 《にくたい》の ない、あたまの なかの かんねんだけから なる ていこく。
 はくぶつかんの ような しせつ。はくらんかいの ような もよおし。あるいわ、ネモせんちょーの せんすいかん。それらが みわくてきに かんじられるのわ、おそらく えごの よくぼーと かんけいして いる。たにんと であわない まま せかいを みずからの ての なかに、あるいは しやに おさめたい という よくぼー。
 えごわ 《にくたい》を にくみ、けしさりたいと ねがう。いたんだり うずいたり おとろえたり くたばったり する 《にくたい》が なければ よいのに、と。




 わたしの ように かんねんてきな にんげんが、かんねんてきで ある ことを やめる ことわ たぶん できないだろう。ならば せめて じぶんが 「とじこめられて いる、というか むしろ 「とじこもって いる」という じかくわ ひつようだろう。
 あなたが たにんの はなしから なんらかの 《いみ》を うけとって いる とき、その 《いみ》にわ おさまり きらない 《こえ》が たしゃから はっせられて いるのだ という こと。その 《こえ》を あなたわ とーめいか して きいて いないから こそ、《いみ》を うけとる ことが できるのだ という こと。できるならば、その 《こえ》にも みみを かたむけよ。

うん こくせー ちょーさ ふぁっく おふ

 せんじつ、ひるねしてたら、こくせー ちょーさ(国勢調査)の ちょーさいんと いう かたが、わがやに いらっしゃいました。
 わたしわ 15ねんまえ から、こくせー ちょーさは きょひ して おり、こんかいも きょひ する ことに しました。その ときの ちょうさいんと わたしの やりとりが、ちょっと おっかなかったので、つつしんで ここに ほうこく いたします。

「おはよーございまーす。こくせー ちょーさに ごきょーりょく いただきたくて、うかがいました」
「あー、ごめんなさーい。わたし こくせー ちょーさには きょーりょく しない ことに してるんです」
「え? どうして きょーりょく できないんですか?」
「あー、そーゆー ポリシーなんです」
「え? それじゃあ、こくみんじゃ なくなっても いいって ことですか?」
「え……?」


 こんな かんじの やりとりでした。
 わたし びっくり しちゃったんで、「え? こくせー ちょーさに きょーりょく しないと こくみんじゃ なく なっちゃうんですか?」と かくにん しましたら、ちょーさいんの ひとは「いや、そんな ことわ ありませんけど……」と うちけされました。
 まあ、この ひとの ことばじりを とらえても しょーがないのですけどね。ちょーさいんに して みれば、「きょーりょく しない」という わたしの こたえに びっくり して、じぶんでも おもっても みない ことばが とびだしちゃったのかも しれません。
 わたしだって、ことしが こくせー ちょーさの としだって ことを わすれてて こころの じゅんびが できて なかったのと、はんぶん ねぼけてたのとで、「なぜ きょーりょく しないのか?」という りゆーを ちゃんと せつめー せずじまいでしたし。
 じぶんの いった ことばや いいおとした ことばの 「いと」だとか 「しんい(真意)」だとかは、いつも ことばを はっした あとに とわれる ものです。ことばを はっする まえに、いまだ はっして いない ことばの 「いと」や 「ほんとーの いみ」を かんがえる ことなど できや しないのだから。
 だから、「あれは そんな つもりでは なかったのだ」という べんかいは、かなしい ほどに むなしい、あるいは こっけいな ほどに ナンセンスな ものに しか ならない。わたしたちが たにんと かかわり つづける かぎり、「ほんとうは こう いう べきだったのに」とか 「なんで あんな ことを いっちゃったんだろー?」と、くやむ ことからわ けっして のがれられないのでしょー。




 さて、なぜ こくせー ちょーさを きょひ するのか、という はなしです。
 いまの こくせー ちょーさが なぜ もんだいなのか? その ろんりてきで たかくてき(多角的)な ぎろんは、わたし なんかが やらなくても、すでに きちんと ろんじて いる すばらしい サイトが あるので、そちらに おまかせ しちゃいます。


ばらいろのウェブログ : 国勢調査、どうする?拒否する?*1
虹とモンスーン : 国勢調査を拒否しよう-用紙の白紙返却を!


 わたしが こくせー ちょーさを きょひ するのは、「イヤだから」です。おまわりの しょくむ しつもんに こたえちゃうのと にた、せいりてきな けんおかんが ある からです。よーするに、かんじょーろんです。
 もし、わたしが じぶんを ふりかえって 「やましい ことの ない にんげん」だと おもえるなら、おまわりの しょくむ しつもんに こたえるのも わりと へーきかも しれません。でも、「ほうりつを おかして ない」という いみで やましい ことが なくても、あんしんわ できません。なぜなら、ケーサツという そしきが、つみを おかしてない にんげんや じぶんたちに とって きに くわない にんげんを 「はんざいしゃ」に でっちあげる ことを しばしば おこなう、はんしゃかいてきで きょーあくな ぼーりょく しゅーだん である ことわ あきらか なのだから。
 その うえ、ケーサツは さべつしゅぎてきな そしきでも あります。さやま じけん(狭山事件)に しょうちょう される ように、さべつ されて いる ひと、しゃかいてきな たちばの よわい ひと ほど、ケーサツの ぼーりょくの ひがいしゃに なりやすい。たとえば、げんざいの ほうせいどでわ、にほん こくせきを もたない じゅうみんは、たんに「がいこくじん とうろくしょう」を もたずに がいしゅつ しただけで、ぼーりょく しゅーだんの ひがいに あう かのうせいが あります。たちばの よわい ひと ほど、おまわりに なまえを とわれる こと、いや はなしかけられる こと じたいが、こわいと かんじられる りゆーが あるのだと おもいます。
 ぎゃくに いうと、しゃかいてきな たちばの つよい ひと ほど、ケーサツに なまえや じゅうしょ しょくぎょう などを きかれても、わりと へーきで いやすいのだ という こと。そーゆー ひかくてき つよい たちばに いる にんげんの ひとり として、わたしわ 「オレは しょくむ しつもん されても ふつごう ないから」と むねを はる ことわ したく ありません。そうやって おまわりの まえで 「フツーの ぜんりょーな しみん」として ふるまう ことが、そう どうどうと ふるまえる ひとと ふるまえない ひとの あいだの せんびき・さべつを つくり だして しまうからです。「しょくむ しつもんに こたえられないのは、その ひとに やましい ことが あるからだろう」という じょーしきを さいせいさん(再生産)する ことを つうじて。




 しゃかいてきな マジョリティが こくせー ちょーさに ホイホイと おうじて しまう ことにも、おなじ もんだいが あると おもいます。
 なまえや かぞく こうせい、つとめさきや しゅーにゅー、がくれき、あるいは せいべつを たずねられた とき、へーきな ひとも いれば、へーきで いられない ひとも いる はずです。へーきで いられるか いられないか、また へーきで いられない どあいわ、この さべつてきな にほん しゃかいに おける、その ひとの おかれた しゃかいてきな ポジションに よって かわって くる ものでしょー。ビザの ない がいこくじん じゅうみんに とってわ、やくにんが いきなり やってきて、いろいろと こじん じょーほーを かきこむ ことを よーきゅー して くる こと じたいが、ふあんで おそろしい たいけんかも しれません。そーゆー ひとに とっては、「イヤだ」と おもっても、ちょーさを きょひ するのは むずかしいでしょー。
 「オレは へーきだよ」と ちょーさに おうじて しまうこと、つまり やくにんに むかって 「とわれた ことに すなおに こたえる、あるべき ぜんりょーな しみん」を あたりまえの ように えんじて しまう こと。それわ、にほん こっかによる/にほん しゃかいに おける さべつを したざさえし、「へーきで ない ひと」に ますます いきづらさを しいる ことに つながる ように おもえて なりません。
 そーゆー わけで、ちょっと ぐらい やくにんに 「ふりょー じゅーみん」と みなされても たいした リスクの なさそーな みなさまに、うん こくせー ちょーさを きょひ する ことを よびかけたいと おもう しょぞんで ございます。ちょーさを きょひ したり、うその しんこくを したり する ことに ついては、いちおー ばっそくは さだめられてる らしいですが*2、ばっそくが じっさいに かされた じれいは いまんところ ない そうです。

*1:5ねん まえの きじですが、いま よんでも じゅうぶん そのまま つうよう する ないようです。

*2:統計法
第十九条 次の各号の一に該当する者は、これを六箇月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。

 一 第五条の規定により申告を命ぜられた場合申告をせず、又は虚偽の申告をした者
 二 第五条の規定により申告を命ぜられた調査につき申告を妨げた者
 三 第十三条の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避し、調査資料を提供せず、若しくは虚偽の調査資料を提供し、又は質問に対し虚偽の陳述をした者

リベラルが ヤスクニてきなるものに くずれおちてゆく とき

 わたしの そふは 「にほん いぞくかい(日本遺族会)」の かいいんでした。
 かれは、へいたい として いった ちゅうごくで どんな けいけんを したのか。また、かれ じしんが なにを したのか。わたしたち まごに かたる ことは ほとんど ありませんでした。
 ただ、かおに てっぽうの たまに よる きずあとが ありましたから、じゅうげきせんを けいけん した ことは たしかでしょう。
 かれは ちゅうごくの ひとに むかって てっぽうを うったのだろうか? かれは ひとを ころしたり ぼうこう したり したのでは ないだろうか?
 そふは そういった ことを かたらなかったのですが、きずを おいながらも いきて かえって きたのは じじつです。
 そして、かれが いきて かえって こなかったなら、わたしが ここに そんざい して いる ことも なかったでしょう。




 そふは ちゅうごくでの じじつを かたらなかった わけですから、とうぜん そこでの けいけんに ついて かれが どう かんがえて きたのか という ことも、その くちから わたしが きく ことは ありませんでした。
 ただ、わたしは その ばしょに いあわせなかったのですが、かれが いくぶんか さけに よった ときに こんな ことを いって いたらしい。「ちゅうごくじんは むしけらだと おもえと いわれた もんだ」と。
 たった ひとこと、それだけを ぽつりと いったそうです。その ひとことの あとに、「しかし……」や 「おれは……」といった ことばを つぐ ことは なかった。
 ぶゆうでんを きかせる つもりだったのか、あるいは 「せんそうは そういう ものだから しかたがなかったのだ」と じこ べんご したかったのか、わかりません。しかし、いずれにしろ、かれが よその くにに せめこんでの ひとごろしと ぼうこうに――ちょくせつに せよ かんせつてきに せよ――てを そめた ことに ついて、じぶんと むきあう ことは なかったのだろうと おもいます。
 そふは なくなる ちょくぜんに けっこうの きんがくの きふを 「にほん いぞくかい」に おくった ようです。わたしも いくらかの おかねを せいぜん ぞうよ(生前贈与)の ような かたちで うけとって います。




 そふは、まごたちに ふかい あいじょうを そそいだし、しんせきや しょくばの どうりょうや どうきょう(同郷)の ひとたちに ずいぶんと しんせつに つくす ひとでは ありました。へいたい じだいの 「せんゆう(戦友)」たちの ことも、たぶん しぬまで わすれる こと なく、こころに いだき つづけたのでしょう。
 しかし、おそらく しんりゃくぐんの いちいんとして ひとごろしと ぼうこうに くわわった じぶん じしんとも、また そういう そんざいと しての 「せんゆう」とも、むきあわなかったのでは ないだろうか。
 そのような かたちで なされる 「せんゆう」の ついとう(追悼)など、やはり ろくでも ないと いわざるを えません。
 その ろくでも なさが この うえなく あらわに なって いるのが、ヤスクニじんじゃに ほかならない ことは、ろんを またないでしょう。ひとごろしを しに いって しんだ 「せんゆう」たち*1を、ひとを ころしに いって いきのこった ものたちが まつり、なぐさめる という しせつ。そこでは いきのこった ものが しんだ 「せんゆう」を 《なぐさめる》 だけでなく、しんだ 「えいれい」に よって いきのこった ものたちが 《なぐさめられる》 という ぎゃくの かんけいも あるでしょう。




 さて、ことしの 8.15には、かくりょうが ヤスクニに さんぱい する ことは なさそうです。
閣僚の靖国参拝ゼロ、一部アジア諸国への配慮か(MSN産経ニュース)


 さんけい・しんぶんは、きじの みだしに ある ように、「いちぶ アジアしょこくへの はいりょか?」と ほうじて いますが、かくりょうの ヤスクニ さんぱいが もんだいなのは、だい1には 「アジアしょこく」が はんぱつ するからでは ないはず。「はいりょ」とか そういう もんだいでは ない。
 かんこく・ちょうせん・ちゅうごく などが はんぱつ する いぜんに、しんりゃくと ひとごろしと ぼうこうを はたらいた じぶんたちに いなおり、なぐさめあう ような イベントに しゅっせきするのは ひととして はずかしくないの、って もんだいでしょ。
 そう おもって きじを よんで みたら、かくりょう たちが 「さんぱいを ひかえるべきだ」とする 《りゆう》が ひどくて、ちょっと びっくり しました。こんな 《りゆう》で さんぱいを ひかえるんだったら、「さんぱい するよりは マシ」とは いえないし、みかたに よっては 「より ひどい」と いえるかも しれません。

 千葉景子(ちば・けいこ)法相(ほうしょう)も「近隣諸国(きんりん しょこく)の感情(かんじょう)を総合(そうごう)すると、首相(しゅしょう)、閣僚(かくりょう)の公式参拝(こうしき さんぱい)は控(ひか)えるべきだ」と指摘(してき)。国民新党(こくみん しんとう)の自見庄三郎(じみ・しょうざぶろう)郵政改革・金融相(ゆうせい かいかく・きんゆうしょう)は「近隣諸国(きんりん しょこく)に考(かんが)えの違(ちが)う国(くに)があり、国(くに)の代表(だいひょう)である閣僚(かくりょう)としては参拝(さんぱい)を避(さ)けるべきだ」と述(の)べた。


 まず、じみ・しょうざぶろう さん という ひとの いいぶんが ひどいです。
 「きんりん しょこくに かんがえの ちがう くにが あり」というのは、ようするに 「じぶん(たち)としては 『さんぱい しても いい』という かんがえだけど、かんがえの ちがう きんりん しょこくが ガタガタ もんく いって きて うるさいから、さんぱいは やめとこうね」と いってる わけです。かれが なにやら 「さんぱい しない こと」の いいわけを してるのは たしかですが、いったい だれに むかって いいわけ してるんでしょうか?




 ちば・けいこ さんも、じみ さん ほど ろこつでは ありませんが、きほんてきに おなじ ことを いって いると りかいして よいと おもいます。
 かのじょは 「きんりん しょこくの かんじょうを そうごうすると……」という 《りゆう》を かたって います。ここでは ちば さん じしんの ヤスクニに たいする かち ひょうか(価値評価)は たなあげに されて います。つまり、かくりょうの ヤスクニ さんぱいが どうして 「ひかえるべき」なのか、じぶん じしんの かちかん・りねんから はんだんし せつめい することは せずに、その せきにんを 「きんりん しょこく」という たしゃの 「かんじょう」(と ちばさんが そうてい する もの)に あずけて しまって いる わけです。




 そして、わたしが ひじょうに きもち わるいと かんじるのは、この ふたりの だいじんの いいわけめいた かたりくちが 《だれに むけられて いるのか?》という ことに かんしてです。
 いっぱんろん として たしゃの かんじょうに はいりょ するのは、マナー として たいせつな ことでしょう。しかし、ふたりの はつげんが むけられて いる あてさきは、かならずしも その いみでの 「たしゃ」(=きんりん しょこく)ではない ように おもわれます。というのも、この ばあい、みずからの かちかん あるいは りねんに てらして 「さんぱいを しない」りゆうを せつめい する いがいに、きんりん しょこくの かんじょうに 「はいりょ」する ことなど ふかのうだからです。そして、ふたりの だいじんは それを して いない わけです。
 したがって、ふたりの はつげんは うちわむけの ものであり、その あてさきは 「わたしたち にほんじん」じしんに むいて います。すなわち、じみ だいじん どうよう、ちば だいじんも、「きんりん しょこくの かんじょう」という ことばを もちだしながらも、「まあ、よその くにの ひとから いろいろ いわれちゃったり するし、やめといた ほうが いいですね」と にほんじん むけに うちわの おしゃべりを やって いるに ひとしい。そこで ほんとうに 「はいりょ」されて いるのは、「たしゃ」では なく、「たしゃ」(きんりん しょこく)の こうぎ(抗議)に はんぱつ するだろう 「みうち」(にほん こくない)の かんじょうでは ないのでしょうか?
 「ヤスクニ さんぱいを ひかえるべきだ」と くちに しながら、なんと ヤスクニに にている ことでしょう。たしゃを けしさり、かがい せきにんを とう ことを たなあげに する ことで、「みうち」として かたまって いこうと する。にほん ナショナリズムの げれつで はじしらずな いちめんを あらたに みせて もらった ように おもいます。

*1:もちろん、むりやり へいたいに とられ、ころすか ころされるかの せんじょうに おくられた かれらもまた 「ひがいしゃ」である めんを もって いるでしょう。したがって、かれらを こっかに こうけんした 「えいれい(英霊)」として まつりあげ、こっか ぼうりょくの いわば きょうはんしゃに したてあげようと する ヤスクニは、かれらの 「ひがいしゃ」としての そくめんに たいしても ぼうとくを はたらいて いると いえるでしょう。

おかえりなさい

ウェブが 「かえって くる」と ひょうげんするのに
ふさわしい ばしょなのか わからないし、
「おかえりなさい」と わたしが いうのも
おかしいと いえば おかしいのだけれど。




かれが まあまあ げんきで やってる らしく みえる こと。
そして、すくなくとも いまは
ぶんしょうを かく ことに ポジティブな いみを
かんじる ことが できてる ようだ という ことを、
うれしく おもって います。




ところで。
しょうじきな にんげんに なろうと する ことは、
わたしにとって
ますます むずかしく なって きた ように おもう。
わたしが こうして 「しょうじきで ありたい」と
ことばに する こと じたいが、
うそ くさい。
でも、
かすかに のこっている
じぶんの 「しょうじきで ありたい」と いう いしを
かんぜんに てばなして しまったなら、
わたしの かく ことなど、
けっていてきに むかちに なるだろう。
「むかち」というのは、
なにより 「わたしにとって」 という こと。




ひさしぶりに あなたの ぶんしょうを よんで、
そんな ことを おもいました。

ヘイトスピーチ

きょう、とうきょうの 「おおくぼ ちいき センター(大久保地域センター)」
という ところに いって きたのですが、
トイレの かべに つぎの ような はりがみが して あるのを
みつけました。


ちょっと せつめいが ひつようですね。
はりがみには
「ごみは もちかえって ください」
という ような ことが、
ちょうせんご・ちゅうごくご・えいごで
かかれて いる みたいです。
で、にほんごでの ちゅういがきも
さすがに どこかに はって あるんだろうと おもって
トイレの なかを さがして みたのですが、
ありませんでした……。




はなしは かわって。
せんじつ とうきょう しながわに ある
にゅうこく かんりきょくの しせつに たちよりました*1
たてものの なかには、
こんな ポスターが でかでかと はって ありました。



もとの ぶんしょうは
かんじ・かな まじりで かかれてるのですが、
かながきに なおして
いちぶ ばっすい します。

ルールを まもって こくさいか
2010 ふほう しゅうろう がいこくじん たいさく キャンペーン


がいこくじんの ふほう しゅうろう ぼうしに
ごきょうりょく ください。


げんざい、ふほう たいざいしゃは
やく 11まんにんと すいていされ、
ふほう しゅうろう する がいこくじんの そんざいは、
いろいろな ぶんやに わたり、
さまざまな もんだいを ひきおこして います。
にゅうこく かんりきょくでは、
ふほう しゅうろう ぼうしと
がいこくじん てきせい こようの ための
キャンペーンを じっし して います。


まあ、よくも いけしゃーしゃーと いえた ものです。
「がいこくじん」を
「ふほう」な まま たいざいさせ、
また しゅうろう(就労)させて きたのは、
まさに ほうむしょうと にゅうこく かんりきょくである わけです。
つまり、
ひとでぶそくの ときには
とりしまりを ゆるめて
「がいこくじん」を ろうどうりょくとして りようし、
けいきが わるく なって ひとでが あまったら
とりしまりを つよめて にほんから おいだす。
こういうのを 「マッチポンプ」と いうのでしょ。
「ふほう」な じょうたいに
「がいこくじん」を おきつづける ことで、
にほん しゃかい、にほん けいざいは、
じぶんたちにとって つごうの よい タイミングと
すきかってな やりかたで
「ふほう」な 「がいこくじん」を
とりしまったり、とりしまらなかったりできるのだし、
じっさい そうして いる わけです。




その うえ
「ふほう しゅうろう する がいこくじんの そんざいは、
 いろいろな ぶんやに わたり、
 さまざまな もんだいを ひきおこして います。」
などと、
さべつと へんけんに まみれた 「がいこくじん」イメージを
たれながして いる。
「ざいとくかい(在特会)」とか 「こうどう する ほしゅ」の
はなしを して いるのでは ありません。
ほうむしょう(法務省)という
じんけんについて もっとも びんかんで なければ ならない やくしょが
そっせんして がいこくじんに たいする ヘイトスピーチ
たれながして いる。




さて、10ねん ほど まえの はなしですが、
けいしちょう(警視庁)や かながわ けんけい(神奈川県警)が
ちゅうごくじんに たいする さべつを あおる ビラを
つくり はる という じけんが ありました。
「ちゅうごくじん」を みかけたら
110ばん してくれと よびかける
とんでもなく あくしつな ビラです。
けっこう ゆうめいな じけんでは あると おもいますが、
なんどでも おもい おこされる べき もんだいなので、
その じけんの あらましの のってる サイトに
リンクを はって おきます。


腹立ち日記 - 差別丸出しの「地域安全ニュース」


とうひょうは せいじ さんか なのだろうか?

 せんきょで ひょうを とうじる というのは、いっしゅの ぎしきに さんか する という こと いじょうの いみは ない。わたしは ずっと そう おもって きた。
 ゆうけんしゃでない ひとは とうひょうに さんかできず、ゆうけんしゃだけが とうひょうに さんかできる。ゆうけんしゃが とうひょうに さんか するのは、みずからが 「ゆうけんしゃ」である ことを かくにん しに ゆく こういなのでは ないだろうか?




 とうひょうじょに あしを はこび、とうひょう ようしに こうほしゃ もしくは せいとうの なまえを かき、とうひょうばこに いれる。
 せんきょ という イベントから これらの こうい だけを きりとって みた ばあい*1、これが きわめて いようなのは、それが なにかに たいする はたらきかけでは ない という こと、それが なにに たいしても えいきょう しない という てんである。
 いうまでもなく、わたしの いっぴょう――たったの いっぴょう――が、せんきょの けっかに えいきょうを あたえる かくりつは、ほぼ ゼロに ひとしい。いっぴょうの さで、ある こうほしゃが とうせん したり らくせん したり する ことなど、ごくごく まれに しか おこりえないのだから。その いみで、ゆうけんしゃの いっぴょうなど、ぱりぱりに かわいた カレハより かるい。
 しかし、わたしが ここで アクセントを おきたいのは その ことでは ない。「えいきょうりょくが ごくごく わずかしか ない」という ことが、「それを おこなう いみが ない」ことを いみする わけでは かならずしも ないからである。
 わたしに いように みえる てんは、うえで きりとった ような ものとして、とうひょう という こういを みた ばあい、それが なにかに はたらきかける けいき(契機)が、(「ゼロに ひとしい」のでは なく) もじどおり ゼロである ところに ある。




 ちょっとした たとえばなしを したい。
 90ぷんの サッカーの ゲームで、たった いちどしか ボールに ふれなかった せんしゅが いたと する。
 ゲームの けっかや ないように たいする その せんしゅの えいきょうりょくは ごく わずかな ものでしか なかったとしも、それは ゼロでは ありえない。
 その せんしゅは ゲームが おわった あとに、「もし……」と とう ことが でき、また 「じっさいには おこらなかった こと」「おこったかも しれない こと」を、じぶんの おこないとの かんれんに おいて、そうぞう することが できるだろう。
 もし、その いちどきりの ボール・タッチが なかったなら、ゲームは 「じっさいに あった もの」と ちがった ものに なって いた はずなのだ。じっさいに おこった できごとは、その せんしゅの ささやかな ボール・タッチなしには なかったであろう できごとなのであって、じっさいに おこって しまった できごとから その せんしゅの たった いちどの ボール・タッチを ひきざん する ことは できない。
 そして、かりに その せんしゅが チームに こうけん する つもりが まったく なく、ゲームに おいて ボールに ふれる ことを さけ つづけた としても、その ひとが ゲームに たいして なんの はたらきかけをも もたない ことは、ふかのうである。ゲームに むかんしんを きめこんで ただ つったて いたのだ としても、その せんしゅが なにも せずに つったている こと それ じたい、また その つったって いる いちに よって、その ひとは ゲームに はたらきかけ、えいきょうを もたらして いる。そんざい する だけで、その ひとは すでに たしゃへの はたらきかけを して しまって いる。




 わたしたちが 「しゃかいてきに そんざい して いる」というのは、そういう ことなのだと おもう。
 わたしが たしゃに はたらきかけて しまう という ことは、どうしても さける ことが できない。「なにも しない」という ことを えらんだと しても、また じさつの ような かたちで じぶんの そんざいを けす ことすらも、たしゃに はたらきかける ことである。
 したがって、じぶんの おこなった、あるいは おこなわなかった こういを ふりかえる ことは、どうじに、もしかしたら ありえた かもしれない かのうせい としての せかいを イメージ する ことでも ある。
 だから、こうも いえる。つまり、わたしが なんらかの こういを おこなったり おこなわなかったり する ことを えらぶ という ことは、その こういが なくては ありえなかったであろう せかいの かのうせいを ひらく ことなのだ、と。たとえ、わたし ひとりに できる ことが、どんなに ちっぽけなのだと しても。




 こうして かんがえて みた とき、せんきょ という せいどは、ひとり ひとりの にんげんの しゃかいせいを はぎとる もの として あるのでは ないかと おもえて くる。
 せんきょでの かちまけは、たんに それぞれの こうほしゃや せいとうへの とうひょうを かぞえる こと、すなわち たんなる たしざんに よって きまる。
 たしざん された ものは、あとから ひきざん する ことが できて しまう。わたしが とうひょうした こうほしゃが かりに 53442ひょうを かくとく したのだと すれば、「もし、わたしが とうひょう しなかったら」その ひとは 53441ひょう かくとくした だろう。ここでは、「もし……なら」と、わたし じしんの おこなった こういを ふりかえって、ありえたかも しれない かのうせいの せかいを そうぞう する ことが、ばかばかしい、ほとんど ナンセンスの きわみとしか いえない しろものに なって いる。
 しかも、とうひょうは むきめいで おこなわれる。それが むきめいで おこなわれるのは、とうひょうしゃの じゆうを ほしょうする という りゆうからであるけれども、どうじに それは とうひょう という こういに ついて とうひょうしゃ こじんが せきにんを とわれる かのうせいを はぎとる ことでも ある。むきめい とうひょうとは、わたしが 「だれに とうひょう したのか?」という ことを かくすだけでなく、そもそも わたしが ほんとうに「とうひょうようしに こうほしゃの なまえを かいたのか どうか?」すらも いっさいの たしゃの めから かくす ことでも ある。
 「むきめい」という てんでは、たしかに、たとえば インターネットの けいじばんに とくめいで なにかを かきこむ といった こういも おなじでは あるだろう。しかし、この ばあい、とくめいで あっても、かきこまれた ことばは たにんの めに ふれるのであり、したがって その こういは たしゃへの はたらきかけである。だから、かきこみを おこなった ひとは、じぶん じしんの こういを あとから ふりかえり はんせい する よちが ある。「あんな かきこみを しなければ……」「もし、ああではなく べつの かきかたを して いれば……」などと。
 ところが、せんきょに おける むきめい とうひょうは、そういった かたちで じぶんの こういを ふりかえる ことが むいみに なるような せいどである。なぜなら、それは はたらきかけるべき いっさいの たしゃから きりはなされた(と みなされた) みっしつで おこなわれる ぎしきであるからである。




 なぜ、おおくの ゆうけんしゃは とうひょうじょに あしを はこぶのだろうか?
 とうひょうは、しばしば 「いし ひょうめい」に なぞらえられる。しかし、いじょう のべて きた ように、とうひょうに よって 「わたしの いし」を ひょうめい する ことは できない。
 せんきょの けっか、わたしたちの めの まえに あらわれるのは、「ゆうけんしゃの いし」「ゆうけんしゃの せんたく」で あって、「わたしの いし」「わたしの せんたく」では ない。しかも、「ゆうけんしゃの いし」や 「ゆうけんしゃの せんたく」は、ひょうを かぞえる たしざん という さぎょうを とおして、かちまけ という けっかから さかのぼって あとから*2 みいだされる ものに すぎない。
 つまり、とうひょうに さんか した ものは、せんきょを とおして、じぶんが じぶん じしんを ふくむ 「わたしたち ゆうけんしゃ」の ひとりである ことを かくにんするのだ という こと*3。だとすると、おおくの ひとが とうひょうじょに あしを はこんで いる という じじつには、「わたしも ゆうけんしゃの ひとりだもんね」と おもいたい よくぼうが はたらいて いる ところも あるのでは ないだろうか?




 わたしは、まが さして つい とうひょうに いっちゃった ことが なんどか あるのだけど、なぜか いままでの ところ、「じぶんが とうひょうひょう した こうほしゃが みんな らくせんする(れいがい なし)」 という ふしぎな ふしぎな ジンクスが ある。だから、「ゆうけんしゃ としての いしひょうめい」とか 「ゆうけんしゃ としての せんたく」など、わたしとは なんの かんけいも ない という おもいしか いだけないで きた。まけた ものに とっては、せんきょとは たすうしゃの いしを むりやり おしつける ぼうりょくでしか ない。
 さらに、にほんの いまの せんきょ せいどは、にほん こくせきを もたない じゅうみん などを 「ゆうけんしゃ」から はいじょ して いる。つまり、これらの ひとたちに たいしても、せんきょは ぼうりょくてきな おしつけに ほかならない。
 そういう わけで、わたしは すくなくとも いまの せいどの まま、せんきょが おこなわれる ことには はんたいだし、その けっかとして あらわれた 「ゆうけんしゃの せんたく」を そんちょう する つもりも ない(わたしに とって つごうが よければ そんちょう してる かのように ふるまう つもりだけど)。

*1:「せんきょ という いべんと」を、たとえば せんきょ うんどう――ある とくていの こうほしゃや せいとうに とうひょう すること、あるいは とうひょう しない ことを たにんに よびかける こと――を ふくめて とらえるなら、はなしは べつである。

*2:事後的・遡及的に

*3:じぶんが 「ゆうけんしゃ」の ひとりで ある ことを かんじたい ひとは、とうせんする みこみの たかい こうほしゃに ひょうを いれようと するだろう。せんきょでの じみんとうの つよさは、そこに げんいんの ひとつが ありそうな きが する。
 また、「きょうさんとうの こうほしゃが ベストだけど、どうせ かつ みこみの ない ひとに いれても しにひょうに なるだけだから、じみんとうよりは マシな みんしゅとうの こうほに とうひょう する(した)」みたいな ことを いう ひとが けっこう いますね。それも やはり、「かちうまに のった ほうが、じぶんが ゆうけんしゃの ひとりとして いしを ひょうめい したと じっかんできて まんぞくしやすいだろう」とゆう けいさんが はたらいてるんじゃないかな?