東京都表現規制問題をめぐる一連の出来事についての共同声明(転載可)
参考
●「東京都青少年健全育成条例改正案に反対する緊急ネットワーク」と昼間氏らへんの対立(Togetter - amamako氏のまとめ)
●mukofungoj c^iuloke
●よねざわいずみ (yonezawaizumi) on Twitter
12月15日、「東京都青少年健全育成条例改正案」が東京都議会で可決され、マンガ・アニメへの表現規制がいっそう厳しくなることになりました。これについて、わたしたちにはいくつかの言うべきことがあります。
1.
制定の過程で石原都知事は、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」という発言を行いました。石原都知事の差別的発言は今に始まったことではありません。しかし、この発言がセクシャルマイノリティへの重大なヘイトスピーチであることに変わりは無く、わたしたちは市民のひとりひとりとして、断固として抗議したいとおもいます。
2.
表現規制の問題については、様々な議論があります。表現の自由、性差別、レイシズムなど、問題はいろいろあるでしょう。しかしひとつだけ言えることがあります。表現の問題を市場の自由に丸投げしてしまうことは、資本主義経済や様々な権力関係による規制を追認するということであり、不公正なものになりうるということです。どのような規制が望ましいかはともかく、いずれにせよ表現規制は市民の責任において、しっかり話し合って決めるものでなければなりません。
一方で今回の都条例は性暴力や差別表現の規制ではありません。確かに賛成派はそれを意図していると主張していますが、じっさいは保守的な性規範の押し付けが意図されているにすぎず、それ自体ある種の性暴力・性差別を内包しているものです。このことは石原都知事のヘイトスピーチにも象徴的にあらわれていると言えるでしょう。わたしたちは表現規制への賛否を別にして、この改正に対して反対を表明します。
3.
他方で、わたしたちは最近都条例反対派のなかで行われたいくつかの騒動に対しても問題視しています。
今回、都条例に「反対」した団体・個人はさまざまですが、そのひとつに過ぎない昼間たかしや山本夜羽音の縄張り意識から、特定の団体・個人への攻撃が行われました。
そもそも「東京都青少年健全育成条例改正に反対する女性表現者の会(現:東京都青少年健全育成条例改正に反対する緊急ネットワーク)」*1と昼間たかし一派とは、その目標からして異なっています。前者は女性やセクシャルマイノリティの権利を獲得する運動の一環として今回の条例に反対しています。しかし後者については、そのような意識があるとはとうてい思えません。後者は何らかの内輪意識を前提としてバッシングしているようですが、このような深刻な距離があることを考えると奇妙なことです。
また、山本夜羽音は、今回は「創作物の」表現の自由という観点からしか発言しないと明言しており、それはつまり自分たちの「自由な表現」のコストをだれがどう負担させられることになるのか、またそこに不公正・不公平が生じるときにどう是正していくのか、といった問題意識を「今回は」考えないということになります。しかし、そうした問題意識を戦略的に考える/考えない、という選択が可能である時点で、「自由な表現」のコスト負担を比較的強いられないような、特権的な立場に依存した傲慢な態度と言わざるをえません。昼間たかしに至っては従軍慰安婦否定論の支持者です。こうした人間たちと一緒に表現の自由を訴えることは大きな問題があります。つまり方法論のちがいいぜんに最初から両者が一緒にやれるとはとうてい思えない。もし一緒にやれないのならば、異なった立場からそれぞれ運動をおこなっていく、ということになります。これは極めてあたりまえのことです。
ところが、後者はなぜか、前からやっていたわれわれに挨拶に来るべきであると言わんばかりに、前者に対して先輩風を吹かせ、方法論についてのあげ足取りをしています。「緊急ネットワーク」には、今回の問題ではないとしても、議員へのロビー活動を多く行い、一定の成果を挙げてきたひとたちも参加しています。にもかかわらず昼間・山本が、自分たちこそが熟達したロビー活動家なのだと確信している様子は、見ていて痛々しいくらいに思えます。
4.
さらに問題なのは、昼間らに便乗するかたちで、「緊急ネットワーク」の特定個人への攻撃・誹謗中傷をおこなっている者が複数いるということです。まず、かれらは昼間らがネットにあげている情報を検証ぬきに「事実」として引用し、これに依拠することで、緊急ネット側の個人を一方的に攻撃しています。このことについての反省は、現時点でもなされていないようです。しかも、かれらのなかには、今回の問題とは別の出来事をもちだして、みずからの一方的な事実認識と価値判断にもとづく非難をあびせた人もいます。わたしたちはこの界隈とは近い関係にいるものとして、この事態をとても問題だと思います。
5.
さらに、今回反都条例緊急ネットワークに対して行われたバッシングは、政治表現の方法論を勝手にひとつの型にはめようとするものでもあります。ロビーイングに際してアポイントメントを取ることとか、都庁内での表現・賛同募集活動の規制は、いった実在するのでしょうか? また、あったとして、それは正当なものなのでしょうか?
もちろんヘイトスピーチなどはどのような形をとるのであれ容認されるべきではありませんが、それはヘイトスピーチだからであって、表現形態の問題ではありません。
直接意見の違いを表明するのではなく、そのような恣意的な「ルール」におんぶした形での対立者へのバッシングは、これからの社会運動を構想する上でも、危険な兆候であるとわたしたちは憂慮します。
わたしたちは、昼間のような歴史修正主義者や山本のようなご都合主義者についてはしっかりと批判し、改まらないようであればかれらと敵対的な関係をもつこと、あるいはそのむねを公的に表明することを、友人たちに呼びかけます。
わたしたちは緊急ネットに属しておらず、代弁者でもなく、個々には意見の違いもあります。また、運動の具体的現場において何がおこなわれたかを詳細に把握しているわけではありません。しかし、上記のことはインターネット上だけで、もっといえばamamako氏がまとめたtogatterを見るだけで言えることです。
代弁としてではなく、不当なことを目撃した一個人たちの責任として、わたしたちは以上のことを訴えたいと思います。なお、代弁ではないと断っていても、バッシングを批判する者が少数にとどまればまるで代弁であるかのように見えてしまうかもしれません。そうならないためにも、あなたの、あなたなりの意見を公に表明することを呼びかけます。
(2010年12月23日)
呼びかけ人
- つねの・ゆうじろう(id:toled)
- 北守(id:hokusyu)
- やねごん(id:lever_building)
*1:以下、「緊急ネットワーク」と略記。
ギタリストびょう
せんじつ あっぷした きょくに リードギターを いれて みました。
あとわ タイトルさえ つければ かんせいです。なんか ふさわしい タイトル ないですかねー。
あ、リンクさきに とぶと、でっかい おとが でちゃうかも しれません。
しょくばとか、おんがくを きくのに そぐわない ばしょで まちがって だいおんりょーで かかって しまうのが ふさわしい、というか それ いがいに つかいみちの ない きょくの ような きが します。アクシデント そのものの ような えんそーなので。
「フュージョン」みたいな おしゃれな かんじに しあげたいなあと おもって いたのですが、ふつーに ロケンローに なっちゃいました。かんがえて みると わたしわ 「フュージョン」を きいた ことが ないのですから、とーぜんの けっかですかね。
やかましく みみざわりで きもちわるい おとと えんそーに なってるかと おもいます。これに ひわいさが くわわれば、ロケンローとして もうしぶんないのですが。
ところで、「ギタリストびょう」という ことばが あります。
ギタリストというのわ じいしき かじょーな ひとが おおいのですね。ギターを ひく ことで じいしき かじょーに なっちゃうのか、はたまた じいしき かじょーな ひとが ギターを えらぶ けいこうに あるのか、わかりませんが。とにかく、ギタリストにわ、バンドとして どう みえる・きこえるかよりも、じぶんが どう みられるか ばっかり きに する ひとが おおい ように おもいます。
で、バンドで ライブを やった あとの うちあげなどで、「ああ、きょうの おれわ だめだった」とか「あそこで ミスった」とか、くよくよ ぐちってるのわ たいてい ギタリストだったりする、というのが わたしの まわりでわ よく めに する こうけいでした。
というか、わたしが まさに そーゆー タイプで、「あー、こいつ また ギタリストびょう はっしょー してるよ」と いわれてたのでした。
きいてる ひとわ ギターなんて きに してない ものなのですがね。ちゅーもく されるのわ ボーカルだし、ロケンロー・バンドでわ ベースと ドラムが きまってれば それだけで えんそーわ きもちいい ものに なるのであって、ギターなんて ほんとわ どーでも いいんです。
でも、「おれさまを よく みせたい」「うまい ひとと おもわれたい」などと おもって しまうのです。すくなくとも わたしわ。
そーゆー ところが、きょく ぜんたいとしての バランス というか、アンサンブルを だめに するんだなあと、じぶんの えんそうを ききながら あらためて おもった しだいです。
と、こーゆー はんせい じみた ことを、ほんとわ ほんきで はんせいなんか してない くせに、わざわざ ぐだぐだ かいちゃうのが「ギタリストびょう」です。
いみん・なんみんに夢と希望を! 知ろう、変えよう入管の問題 世界人権デー劇場
なんか なりゆきで おしばいに でる ことに なりました。
けーさつによる「がいこくじん がり(外国人狩り)」、にゅうこく かんりきょくの しゅーよーじょでの ぎゃくたい。そういった にほん こっかの、ざいとくかい(在日特権を許さない市民の会)なみに やばんで はじしらずな ありようを さいげん する しばいです。
わたくしわ、なんみんを いじめる おまわりの やくなどで しゅつえん します。
きょうみの ある かたわ、ぜひ みに きて ください。
こんしゅうの どようび、ばしょわ とうきょうの あさくさです。
いか、てんさい(転載)します。
(リンクさきで かいじょうの ちずを みれます)
http://pinkydra.exblog.jp/13613076/
2010年12月11日(土)
開場 ごご2:30 / 開演 ごご3:00
台東区民会館 9階 第5会議室
浅草駅(銀座線、都営浅草線、東武鉄道、つくばEXP)から徒歩5分
毎年、12月10日をふくむ週は、世界人権週間です。
日本の法務省は、取り組むべき人権課題に「外国人」を挙げています。
http://www.moj.go.jp/JINKEN/kadai.html#08
また、国連で採択された世界人権宣言では、下記のように定められています。
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(第1条)。
「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない」(第5条)。
世界人権宣言(仮訳文) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
しかし、その法務省じしんが、ほんとうに外国人の人権をきちんと尊重しているのでしょうか?
「入国管理」というあいまいな表現の裏で、法務省は日本にやってくる移民や難民を、どのようにあつかっているのでしょうか?
その実情を知り、日本における外国人の「人権課題」とは何なのかを、いっしょに考えましょう。
★★ 移民・難民演劇をやります! ★★
移民や難民は、なぜ、どのようにして日本にきたの? どうやってくらしてるの? 入管でどういうあつかいを受けるの? そういった、あまりおおやけには見えてこない移民や難民の実情を、わかりやすく克明にものがたる、オリジナル劇を上演!
★★ 難民からの声 ★★
当事者もこの会に駆けつけて、話を聞かせてくれます。また、難民の方が作った手芸品・小物(マフラー、鍋敷きなど)を販売します。売り上げは難民支援に使用します。
★★ 諸外国の入国管理局との比較 ★★
どこの国にも入国管理局はある。でも、やっていることは国によってかなりちがうようです。
講師: 田中喜美子さん(牛久入管収容所問題を考える会)
《賛同団体》 2010年12月7日現在
チェチェンニュース編集室 / 南埼玉ちきゅうじん会議 / BOND(外国人労働者・難民と共に歩む会) / 週刊金曜日 / RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク) / 牛久入管収容所問題を考える会 / 難民を支援し連帯する会 / WITH(西日本入管センターを考える会) / 仮放免者の会(関東)
入場料 無料(日本出身者は、資料代として500円)
SYI (収容者友人有志一同)
連絡先: freeimmigrants★yahoo.co.jp (★は@に変えてください)
ファンキーで ジャズィーな かんじ?
あたしわ ロケンローな ひとなので、ファンキーも ジャズィーも よく わからんのですけど。
とりあえず、こんなの つくって みました。
あとで ギターで メロディを いれよーと おもってるんですが、よくなる きが あんま しないっす。
だれか、ギターでも うたでも ピアノでも なんでも いいんで、てを いれて かんせい させて くれないかなー。
マニックスの ライブ いって きました
きょうわ、新木場(しんきば)スタジオコーストで、いとしの マニックス(Manic Street Preachers)の ライブを みて きました。
としがいも なく、ぴょんぴょん とびはねたり して きたので、あしが いたいっす。マニックスわ ねっしんな ファンの おおい バンドでも あるので、かいじょう ぜんたいで だいがっしょー という かんじで、すっかり ぜんたいしゅぎを たんのー して きました。いやあ、ぜんたいしゅぎって きもちいー もんですね。ぐんしゅーに とけこんだ ときの じぶんの うちに ちからが わきあがって くる あの かんじ……。やばいです。
えんそうされた きょくもくを あげときます。きょくじゅんわ かならずしも この とおりでわ ないです(さいしょの 3きょくと さいごの きょくわ あってる はずですが)。
- You Love Us
- Your Love Alone Is Not Enough
- Roses in the Hospital
- It's Not War Just the End of Love
- Motorcycle Emptiness
- Everything Must Go
- Jackie Collins Existential Question Time
- Some Kind of Nothingness
- Scream to a Sigh (La Tristesse Durera)
- Ocean Spray
- Theme from M.A.S.H. (Suicide Is Painless)
- This Is Yesterday
- Stay Beautiful(Acoustic)
- Faster
- Tsunami
- If You Tolerate This Your Children Will Be Next
- Golden Platitudes
- No Surface All Feeling
- Motown Junk
- A Design For Life
リストに もれが ありました。"You Stole the Sun from My Heart" も やってました、そーいえば(12/3 追記)。
バンドメンバーわ 3にんとも 40すぎてる はずなのに、エネルギッシュでした。いまや 「おーごしょ」と いっても いいかなー という ポジションに ある かれらですから、もっと ちからを ぬいた かんじで えんそー しても よい ような きも しますが、めいっぱい ぜんりょくで やって くれてる ように みえ、それも うれしかったです。
ジェームスさんは、さすがに おわりの ほうでわ、MCのとき しゃべる こえが かすれたり してましたけど、いざ うたいだすと「ふじみの ジェームス」って かんじで、いっさい つかれを かんじさせない。ベテランとしての よゆーを かんじさせつつも、いろどり ゆたかな こわねを ひろく いかして、ちからの こもった うたを きかせて くれました。
ショーンさんも パワフルでした。こんな こと ゆーと なまいきですが、この ひと うまく なったよねー。しょきの ころわ、ドラミングが けっこー どたばた してて あんてーかんが なかったもん。そりゃ 20ねんも ツアーに ツアーを かさねて えんそー してれば、じょーずに なるものかも しれないけど、どっしりと おちついた かんじで なおかつ しっかり ロケンローらしく やかましくって、よかったっす。
ニッキーさんわ、とびはねたり おどりまわったり しながら ベース ひいてました。わたしわ じたくで ひとりで ひそかに まねして みたり してるんですが、ジャンプしながら ベース ひくのわ かなり むずかしーです。ギターなら まだしも、ベースわ おもいし。あと、かれ スカートと ぼーしが よく にあってて、セクシーでした。
あと、だんぺんてきに メモを。
- あたらしい アルバムからの きょくわ 3きょく(4, 8, 17)で、ふるい きょくが おおかった。かれらわ 20ねんくらいの キャリアの なかで、ふるい きょくも リズムを くふうしたり、リズムを かえたり、すこしずつ はってん させて きてるのが わかる。それも 「いきあたり ばったり」でわ なく、ちゃくじつに てーねーに。わたしらに とっても おもいいれの ある きょくを かれらが だいじに して くれてる ように おもえて、うれしー。
- ジェームスさんの ギターわ、This Is Yesterdayで fホールの あいた テレキャスター、Stay Beautifulで アコースティックだった ほかわ、ぜんぶ レスポール(2ほん あったかな?)を つかってたみたい、たしか。
- Stay Beautifulわ、ほかの メンバーが ひっこんで、はじめて きく ジェームスさん ひとりでの アコギ ひきがたり バージョンだった。つやの ある こわいろで しっとり うたい あげてて、すてきだった。
- Motown Junk わ、しばらく まえから そう してる みたいだけど、かしの いちぶを しょーりゃく してた。つまり、"I laughed when Lennon got shot"(レノンが うたれた ときわ わらっちまった)の "when"から さきわ うたって なかった。「としを とって ひよりやがって」とか そーゆー ことわ、おもわない。ふきんしんで むだに こーげきてきにも おもえる そんな ひょーげんわ、しないで すむなら しない ほうが いいよねーと おもうので。もっとも、「うつくしー」ことばで あいと へーわだけを うたってられるかよって げんじつわ ある わけで、「レノン、ざまー みやがれ」って どくづいて しまった かつての じぶんたちを ひてい する ことも できないのかも しれない。だから、「きょく そのものを すてさる ことも できず、かしの いちぶだけを はぶいて うたっちゃう」という ちゅーとはんぱな たいどで ふらふら せざるを えないんだろうか? あー。
- 11わ、えいが『M.A.S.H.』の テーマの カバー。「じさつ するのも わるくないかも」みたいな うたなんだけど、ふじみの ジェームスさんが うたうので なんか へんな かんじ。「そんな こと いったって、あなた しぬ つもり ないでしょ?」みたいな。でも、メロディや かしの センチメンタルで うしろむきな うつくしさと、ボーカリストから つたわって くる まえむきな バイタリティが きみょうにも どうきょ してるのが、この バンドの みりょくだと おもうので、かれらに ぴったりの うただよなーと おもった。
- さいごの A Design For Lifeわ この きょくで さいごだと かん きわまってたのと、どとーの ような えんそーが つづいてて かるく トリップ しちゃってたんで、なにが どうだったんか よく おぼえてないっす。
げんぱつ すいしん プロパガンダの アイロニー
きのうから かぜぎみで ちょーしが よくないのに、きょうわ むりして うごきまくった せいか、また ねつっぽく なって きて、てんしょんも たかめです。なんか、みょうに きぶんが たかまってて きもち いー。
きのうわ ひるから ばんまで ねたり おきたりを くりかえしてて、へんな ゆめを たくさん みました。どんな ゆめだったか、ほとんど おぼえてないですが、ひとつ はっきり いんしょうに のこってるのわ、「じぶんの かみのけが どんどん ぬけて いく」という ゆめでした。かがみを みて じぶんの あたまの じはだが あらわに なってるのを ながめながら、「あらららら」と おどろいて いる。そんな ゆめでした。
さて、この サイト、きょうみ ぶかく はいけん いたしました。
もんぶ かがくしょうや、けいざい さんぎょうしょうが しゅさい する「げんしりょく ポスター コンクール」に にゅうしょう した さくひんを みる ことが できます。
まあ よーするに、しょうがくせい・ちゅうがくせい・こうこうせいに、「げんしりょくわ すばらしい エネルギーですよ」と アピールする ポスターを かいて もらって、それを げんぱつ すいしんはの せんせーがたが ひょーか すると、そーゆー コンクールらしいです。
ところが、サイトに のってる もろもろの さくひんを みて おもしろいのわ、「げんしりょくの すばらしさ」の せんでんとして、これらわ はたして せーこー してるんだろーか? そーゆー ぎもんが どーしても わいて きて しまう ことです(もっとも、「げんしりょくわ あぶない」という わたしの おもいこみによって、そーゆー ふーに みえちゃう という ところも あるかも しれませんが)。
たとえば、いちばん ひだりうえに のってる 「もんぶ かがく だいじん しょー」を じゅしょー した さくひんが すごいです。
あおい そらと まっしろい くも。だいちの うえにわ きれいな おはな ばたけで たのしそーな おんなのこが ふたり。
ところが、じめんの した ふかくにわ、これ なんて いうのかしら、「きけん!」と けーこくを はっする マークの ついた かくねんりょう はいきぶつが うまってるのが ばっちり えがかれて いるのです。しかも、この ぎじんか(擬人化)されて えがかれた 「ねむれる かくねんりょう はいきぶつ」ちゃんたちの なかに 1ぴき かためを あけて めを さまそーと してる やつが いたりも します。ぎゃー、こわい!
いちおー、ポスターにわ「みんなで つなごう あかるい みらい」という コピーが まんなかに ついてるのですが、そりゃ あんまりに しらじらしー という ものです。というか、この えの こうずから して、この「あかるい みらい」という コピーわ ほとんど アイロニーとして しか よめないですよ。
そーゆー わけで、これわ むしろ「げんぱつ はんたいはの ポスター」として みて こそ、ひじょうに すぐれた さくひんだと おもうのです。
まず かんがえさせられるのわ、どーして こーゆー ひにくな じたいが おこって しまうんだろうか、という ことです。
ふつー、プロパガンダ というのわ、ふあんを あおり、その あおられた ふあんを りよーする ことで、ひとびとを ほーこーづけようと する ものです。ケーサツや ぐんたい といった、こっかの ぼーりょくを せーとーか(正当化)する ための プロパガンダであれ。あるいわ、しょーひんや サービスを かわせようと する ための プロパガンダであれ。
いっぽう、げんぱつを せーとーか しようとする プロパガンダにおいてわ、まず やらなければ ならないのわ、はんたいに「ふあんを うちけす」という ことですよね。ところが、「ふあんを うちけす」ためにわ、その ふあんの ねっこに ある ものを いちどわ めに みえる かたちで しめさなければ ならない。
そーゆー わけで、れいの さくひんの さくしゃわ、「かくねんりょー はいきぶつ」を はっきり えがかなければ ならなかったのだと おもいます。しかも、それが「かくねんりょー はいきぶつ」だと わかるように、「きけんぶつ」を しめす マークも こみで。そのうえで、「かくねんりょー はいきぶつ」ちゃんたちわ ねむってるから だいじょーぶだよ「ZZZ……」、と、ふあんを うちけしに かかる。そういう てじゅんを ふんで いる わけですね。
でも、いちど 「きけんぶつ」の そんざいを はっきり しめしちゃった じてんで、その ふあんを うちけすのわ、かなり むずかしい。
ただ、たぶん ひとつだけ ほうほうが あります。それわ、そこで しめしちゃった 「きけんぶつ」より 「もっと きけんな そんざい」を でっちあげる ことです。たとえば、じえいたいや アメリカぐん という きけんぶつを せーとーか するために、「きたちょうせんや ちゅうごくの きょーい」を でっちあげる。あるいわ、ケーサツという きけんぶつを せーとーか する ために、「きょーあく はんざい」えの ふあんを あおる、と ゆーよーに。
しかし、げんぱつの ばあい、この やりかたも あまり うまく いきそーに ありませんよね。だって、「かく ばくはつ」や「ほーしゃのー」わ、20せいき なかばから こっち、ふあんを かきたてるにわ これ いじょうない アイテムなのですから。
げんしりょく はつでんを いじ したい、あるいわ すいしん したい ひとわ、しばしば、それが 「かんきょーに やさしく、しげんを ろーひ しない エネルギー」であるかの ように いいたてます。「ほんとかよ?」という ぎもんわ ここでわ おきます。でも、「ちきゅー おんだんか」とか 「せきゆ しげんの こかつ」とか、ふあんの たね としてわ、スケールが ちっちゃすぎます。それらの ふあんを あおった ところで、「ほーしゃのー」の ふあんを うちけすにわ とうてい かないません。やくしゃとしての かくが ちがい すぎるのです。
そーゆー わけで、いまんところ、げんぱつ すいしんの プロパガンダわ かなり むずかしい、それに よって ひとびとの ふあんを ぬぐいさる ことわ できそーに ない、と いえそうです。
ところがです。ここからが よく かんがえて みたい ところなのですが……。
じっさいにわ、でんりょく がいしゃや けいざい さんぎょうしょうが はってる げんぱつ せーとーかの キャンペーンわ せーこー してるようにも みえるのですね。
まあ、マスメディアに ほとんど げんぱつに ひていてきな ほーどーが でてこない りゆうわ、ふしぎで ありません。でんりょく がいしゃが テレビや しんぶん ざっしに がんがん こうこくを だしてるのを みれば、「マスメディアわ ばいしゅー されてて ひはんできない わけよね」と なっとく できます。
でも、それにしても、おおくの ひとたちわ げんぱつに たいして こうていてき、というか、「げんぱつ はんたい」や「だつ げんぱつ」という いけんに たいして れーたんな ように みえます。それわ なぜなのか、というのわ、よく かんがえて みる かちが ある といの ように おもいます。
わたしも げんしりょく はつでんの 「あんぜんせい」に ついて かがくてきに ひょーかを くだせる ような じょーほーわ もって いません。かりに そのよーな じょーほーに アクセスできたと しても、やはり そこで はんだんを くだせる ような のうりょくと じかんが あるかと いえば、ないような きも します。
それでも、まんが いちであれ、だいじこが おきた ばあいの おそろしさわ イメージできる。たまってく いっぽうの ほーしゃせい はいきぶつを どーすんだろー、しょりしきれるんだろーか、それが じめんに しみだして みずや つちを おせんしたら やばいよなとか、おもいます。また、げんぱつの てーき てんけんや そーじに かりだされる ろーどーしゃわ ひばく してるんだろーなとか。
せんもんてきな ちしきわ なくても、げんぱつが やばいって ふあんわ ある。そして、その ふあんを うちけす ような こうほうわ、ぜんぜん なされて ないわけですよね。
で、わたしだけじゃなくって、「げんぱつが あんぜんだ」なんて ことを ほんきで しんじてる ひとなんて ほとんど いないんじゃない? だから、さきに ふれた 「げんしりょく ポスター」の さくひんが、「げんぱつ はんたい プロパガンダ」としても りっぱに つーよーして しまう ことが あきらかなのに、あろうことか もんか だいじんが しょーを あたえて しまうという いっけん まぬけな じたいが おこるのでわ ないでしょーか?
つまり、「げんぱつに じゅーだいな きけんが ある」ことわ、だいじんや げんしりょく さんぎょー かんけーしゃに とって、べつに「にほんこくの じゅうみんたちに かくさなければ ならない こと」でわ ないんじゃないか? 「きけん」だと にんしき したとしても、おおくの じゅうみんが その 「きけんせい」を スルーして くれる という きたいが かれらに あるのでわ ないか? で、じっさい その きたい どおりに なってる、と。
そこに どーゆー メカニズム、とゆーか せーじが はたらいて いるのか、とゆー もんだいわ きょーみが そそられます。
とりあえず、だいぶ つかれてるんで、もー ねますけど。
ブロガーズ@io
『月刊イオ』の 12がつごうに げんこーを かかせて いただきました。
わたしの げんこーわ 『イオ』の ウェブサイトでも よむ ことが できます。
『イオ』わ、すこし まえから てーきこーどくを して おり、まいつき あいどく してます。
こんげつごうでわ、李柄輝(リ・ビョンフィ)さんの 「100周年に終わらせない記憶の束を」という エッセイが いんしょうてきでした。李さんわ この エッセイを つぎの ように かきだします。
小学生の頃、祖父母と父の「親子の会話」が不思議でたまらなかった。祖父母は父に嶺南訛りの朝鮮語で語りかける。父はその言葉をすべて理解できたというが、答える言葉は日本語であった。
つづきわ、『イオ』で およみください……。
しょくみんちしゅぎ こっか ニッポンわ、李さんの おとーさまから もじどおりの いみでの 「ぼご(母語)」を うばいました。また、かれの そふぼから「ぼごを はなす むすこ」を うばいました。
李さん じしんわ、ちょうせん がっこうで まなび ちょうせんごを 「とりもどし」ました。しかし、李さんが かいて いるように、「だが、それは母語としてではない」。
まさに、にほんわ 李さんや その ちちおやから、けっして あとから とりもどす ことの できない ものを うばったのだ という ことです。
このような じょうけんの なかで、いかなる 「じこ かいふく」が ありうるのだろうか? とりもどしえない ものを うばわれた ときに、なにを どうやって「とりもどす」ことが できるだろうか?
これわ じづらだけを うすっぺらく なぞるなら、「ふかのうな とい」にしか みえない。でも、このような といにも いどんできた ひとが いて、じっさい そこから あたらしく きりひらかれつつ ある みちが あるのだ という こと。「ふかのう」に みえる といを ムダと みる かんがえこそが あさはかなのだ という こと。わたしわ そのことを、この 李さんの ぶんしょうや、それぞれの ばしょで うばわれた ものを 「とりもどす」ために たたかって いる さまざまな ひとたちから まなんで きたように おもいます。
そういう わけで。にほん こっかわ いまなお ちょうせん がっこうや みんぞく きょういくえの ぼーがいを*1 こころみて いるけれど、それこそ むだな てーこーなのであって、ただちに てーこーを やめて こーふく しなさい、これいじょー はんざいを かさねるな。と いいたいです。