なつの とびら & しろい パラソル

 じぶんは どちらかと いうと ナルシストで、かがみを みたりするのが すきなほうである。ひとまえでは はしたないから やらないようにしているが、ひとりで すごす じかんの だいぶぶんは かがみに うつった じぶんの すがたを ながめて、「おー、おとこまえだなあ」などと ためいきを つくなどして あきることが ない。そんなことを していると、いちにちは あっというまに すぎさる。そうしているうちに わたしの 青春は あっというまに すぎさったのである。
 ただ、かがみに うつった イケメンな かおが わたしの 客観的な すがたかと いえば、そうとも いえないところが ざんねんではある。かがみの まえで じぶんは じぶんの みたいように かおを つくっている。かがみに うつった じぶんは 「じぶんが みたいと おもっている じぶん」に ほかならないのであって、たにんにも そんなふうに みえているわけでは ないのである。
 じぶんは かがみは すきだけれども、写真は きらいである。写真というものは 「じぶんが みたいと おもっている じぶん」とは ちがう わたしの すがたを、いやおうなく じぶんに つきつけてくるからだ。「この ぶさいくな おっさんは だれだ?」と おもったら、わたしだった。みたいな 経験を するのは、けっこう へこむものである。
 もっとも、スチール写真というのは 瞬間の 断面を きりとったものであるから、そこに うつった ぶさいくな わたしが 「ほんとうの わたし」じゃない、と おもいこむことも できなくはない。「うごいている わたしは もっと かっこいいはずだ」と。
 しかし、こういう 幻想も 動画によって ふきとばされる。うごいている わたしの すがたを まのあたりにするのは なかなか ショッキングで きっつい 経験である。
 でもまあ、かがみに うつした じぶんの すがたが 客観的なものでないとしても、写真や 動画の じぶんの すがただって 客観的には みれない。写真に うつった わたしが じぶんにとって ぶさいくに みえるのは、ひごろ かがみで みている じぶんの すがたの イメージとの ギャップのせいでもある。かがみによって 「じぶんは こう ありたい」「じぶんは こう あるはずだ」という じぶんの イメージを つくりあげてしまっているため、そのような イメージを いやおうなく うらぎる 写真や 動画に ぎょっとして しまうのである。
 そんなふうな 「じぶんは こう ありたい」という イメージと かさねる かっこうで じぶんの うつった 写真や 動画を みているのは わたしだけなのであって、たにんは そんな イメージぬきに わたしを みているのであるから、けっきょくのところ、たにんに わたしが どうみえているのか わたしが しることは できないわけである。しかし、だからこそ、それが きになって きになって しかたがないのである。
 おなじように、わたしは わたしの こえを きくことが できない。ふだん じぶんが しゃべったり うたったりする こえを わたしは じぶんで きいているわけだが、それは かがみに うつった じぶんの すがたを みているようなものだ。わたしが そこで きいているのは 「じぶんの こえ」では あっても、「わたしの こえ」ではない。
 じぶんの うたう こえを 録音して きいてみると、じぶんの うつった 写真を みるときのように きみが わるく かんじる。しかし、その きみのわるい かんじは、じぶんが じぶんの こえに たいして いだいている 「こう ありたい」「こう あるはずだ」という イメージとの ギャップのせいでも あるだろう。いや、たにんにも きみの わるい こえに きこえているかもしれない。わからない。でも、わからないからこそ うたうんだ。わたしは あなたの まえで うたいたいんだ。


 なんつって、まえふりが ながくなりましたけれど、また うたってみました。ほんとうに すみません。ごはんが まずくなったら ごめんなさい。ねるまえに きいたら わるい ゆめを みるかもしれません。ほんとうに ほんとうに もうしわけ ございません。
 「まつだ・せいこさんの うたを うたってみよう」シリーズ、こんかいで 2かいめに なります。「なぜ、せいこさんの うたを えらんだのか?」というのは、じぶんでも よく わかってません。ただ、「おとこの ひとが うたってる うた」や、「おんなの ひとが うたっているけれど おとこの ひとが うたいそうな かんじの うた」というのは、あんまり わたしは うたいたくならないのですね。「あいしてるぜ、ベイビー! おまえを まもってやるぜ ハニー!」みたいなのは しょーに あわないし。あと、「きみを うしなってから ぼくは……」みたいな 喪失感ソングも、きくのは ともかく、じぶんで うたうのは なんか いわかんが あります。


 そういうわけで どういうわけか わかりませんけれど、せいこさんの 「なつの とびら」です。いま ふゆだけどね。さむいよ。
 これは むずかしかった。へんびょーし(変拍子)って いうのかしら。そうゆーのが あります。きほんは 4びょーしの きょくなんですけど、サビの 「フレッシュ フレッシュ フレッシュ」って ゆーところに はいる てまえの 1小節だけ、3びょーしに なってるんですね。とゆー りかいで いいのか どうなのか わかりませんけれど、ともかく サビまえの 1ぱくぶん けずられているのね。
 どういう ねらいで こういうふうに しているのか、わたしには よく わかりません。へんびょーし なしでも、ぜんぜん いけるような きも するんだけど。間髪いれずに サビに はいってくことで 疾走感を だしてるのかなあ、という かんじは します。
 で、この サビまえが なんど とりなおしても なかなか あわない。「あった」と おもったら、こんどは ほかの ところが ぐだぐだに なる。「いっそ、へんびょーしは なしで やろうか」とも おもったんですけど。
 でも、ひとが やっていることが わたしにとって 「きみょう」に かんじられると したら、その 「きみょうさ」には なにか わたしの よみとれていない いみが あるのかもしれない。わたくしは そう かんがえるように しております。「きみょうだ」と かんじている じぶんの かんじかたのほうを うたがい、そこから きょりを とるということを なるべく してみよう。それが ひとと むきあうときの マナーとして だいじなんじゃないかなあ。とまあ、いつも そうするのは むずかしいですけれども、おもいます。ここでいう マナーとは、「ジョーシキ」としての 「マナー」を ふりかざすのとは まぎゃくの たいどです。
 って、そんな たいそーな はなしでは ないですけど、むりして へんびょーしで やりました。けっきょく リズムが ドタバタしちゃってますけど。
 あと、エレキギターを いれたのは うるさかったかも。
  (↓ でかい おとが なるので ちゅうい!)

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 それから、もう ひとつ。これも せいこさんの うた。「白いパラソル」も うたってみました。うえの きょくも そうですけど、これも 財津和夫(ざいつ・かずお)さんの 作曲です。
 こころを こめて うたいました。こころを こめすぎて キモイことに なっております。

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 ワイセツブツチンレツザイで たいほされそうなので、すこししたら けしますね。