マルコムX――コミュニストとしての

 マルコムXの自伝をもうじき読み終わりそうなところ。
 ぜんぜん知らなかったんだけど、マルコムってコミュニストじゃん。
 この自伝の前半では、ハーレムで麻薬の売人から空き巣にまで手を染め、監獄にぶち込まれたひとりの少年が、イスラムの教えと出会い、また獄中でのおびただしい量の読書を通じて、みずからの認識を開いていく過程が語られる。というふうなまとめ方は、おそらく不十分なのであろう。
 この自伝は「かつてワルでならした男が、自分の半生と手を切ることによって、真人間になりました」というような厚かましい物語ではない。彼は、最期まで彼の一部をハーレムに置いて、考え行動し続けたのだから。自分が「更生」したことをウリに一儲けをたくらむどこぞの元ヤンキーのような説教がましさもないし、かつての無頼ぶりをひけらかすマッチョさとも無縁である。彼の一部を構成している、切り離しえない自身の過去を、美化するでなく、控えめな語り口で彼自身の未来に向けて再構成していく。
 その「彼自身の未来」が暗殺によりまもなく断たれてしまったことをこの自伝を手に取る読者は知っている。しかし、この自伝の著者の意志は、読み手のなかに潜行し引き継がれてゆくだろうし、引き継がれてゆかなければならないだろう、と思わずにはいられないような力を感じる。
 マルコムXは、途方もない理想を語るのであるが、その理想は彼自身の過去の痛み、また今なお彼と同胞が置かれている苛烈な状況と切り離すことができないものとして語られている。だから、ひとつひとつの言葉が、たわむれでない必然性をもったものとして読み手に迫ってくる。
 酔っぱらってるから言うわけじゃないけど、こういう言葉を聴くとわが身を恥ずかしく思わないでもない。日々、自分が本を読んで何かを学んだ気になっていたり、発言して価値あるなにごとかを語った気になっていたりすることに、彼のような必然性はあるのだろうか。たまたま与えられた知的な資源を、自分はろくなことに使っていない。

 読書が開いてくれた新しい視点のことをよく考える。私がまさにこの獄中で知ったことは、読書が永久に私の人生を変えてしまったことだった。今日ふり返ってみると、読書は私のなかに長いあいだ眠っていた思索的に生きる欲求を呼び覚ましたのだ。しかし、大学が学生に社会的地位をあたえるための学位のようなものを求めたのではない。そのほか読んだ本とともに独学によって、私はアメリカ黒人を悩ませつつある、耳は聞こえず、口はきけず、目も見えないという病を痛切に意識することになった。最近、あるイギリスの作家がロンドンから私に電話をかけてきて質問した。一つは「出身校はどちらですか?」だった。「本です」と彼にいった*1


 読書によってあらたな彼の認識が開かれ、また彼自身の一度経験した過去や黒人の歴史にあらたな意味づけがなされていく様子が、この「自伝」のみどころなのだが、その話はいずれまた今度。
 以下、数ある印象的なシーンのひとつを引用する。マルコムが貧しい少年時代を回想する一節。

 こうして私は、いろんなやり方で、いろんなことを学んだ。イチゴつみもやった。賃金は一箱あたりいくらだったか覚えていないが、一日へとへとになるまで働いて確か一ドルほどにはなった。それでも当時は大金だった。なにしろ腹ぺこではあるし、どうしてよいかわからぬほどだったから、私は何かおいしい物を自分が買っている場面を頭のなかに描きながら、町へ向かって歩いていった。途中でリチャード・ディクスンという年長の白人の子が近づいてきて、五セント玉を放りあげてやる賭けをやらないかといった。その子は五セント玉をたんまり持っていて、私の一ドル札と換えてくれた。半時間もたたぬうちに、彼は私の一ドル分もふくめて全部の五セント玉を回収してしまった。町へ食べ物を買いにいくかわりに、私は一文なしで家のほうへ帰っていった。くやしかった。しかしそのくやしさも、あとになって相手がインチキをやったとわかったときの思いにくらべればなんでもなかった。五セント玉を受けとめて握るときに、自分の思うとおりの側を上に向けるやり方があるのだ。これが賭博について私が学んだ最初の教訓だった。もし誰か勝ちつづける者がいたら、それはまともな勝負ではなく、イカサマをやっているのである。ずっとあとになってからのことだが、賭博場で負けがこむようなときは、いつも相手の手のうちを見落とさないようになった。これは、いつも白人が勝つところを見ているアメリカの黒人と同じで、なにしろ相手はプロの賭博師なのだ。全部のカードと余分なカードを自分の側に積み上げておいて、われわれ黒人にはいつも積み札のうちの底札を配ってよこしてきたのだ*2


 イチゴを摘む労働をしながら、食い物にありつけない。食い物を生産する現場に居合わせながら、少年は腹をすかせている。まずこの状況を読み、感じるところがおおいにあった。これは、「正常」なこととも「当たり前」なこととも思えない。やはり「間違ったこと」だと思う。この場面には「搾取」とは何かということが、これ以上ないくらい明確なイメージをもって表現されているのではないだろうか。そう思えないのだとしたら、それは私たちの認識のどこかが麻痺している、ないし狂っているのだ。
 そして、この賭博によってマルコムが得たという教訓。「もし誰か勝ちつづける者がいたら、それはまともな勝負ではなく、イカサマをやっているのである」。
 最近では、「ライフハック」などと称して、成功者がみずからの成功の秘訣について、ずうずうしくも助言をたれるのが流行りらしい。そうでなくとも、自身の成功を誇示して恥じない者は多いし、卑屈にもそういう輩からなにごとかを学ぼうとへりくだってみせる者も多い。
 だまされてはいけない。勝ち続ける者、成功者と呼ばれる者は、つねに必ずイカサマをやっているのである。イカサマ師は「自由競争」だとか「能力がある者、または他人より努力した者が成功を勝ち取る」のだとか、そんなふうな口のきき方をする。だが、ある者が他人より余計にモノやカネを手にすることに正当性なんかいっさいない。他人の取るべきぶん、他人が必要とする他人の取りぶんを横取りした者が「勝者」「成功者」にほかならないのであって、そいつらが自分のおこなった横取りの正当化に後付けの理屈で「能力」だとか「努力」だとか言っているにすぎない。
 だから、横取りされた者は、その横取りした相手からカネやモノを「取り返す」(ブルジョアの法ではこれを「盗む」と表現する)権利がある。後藤ユウキよ、胸を張れ。と、私は思う。
 しかし、マルコムXは、ハーレム時代の彼の仲間、そしてかつての彼自身が、盗みや詐欺をすることにどれほどの苦悩を抱いていたか、描写している。彼らがそうした「不正」に手を染める苦悩をやわらげるためにこそ、ドラッグで頭を麻痺させる必要があるのだ、と彼は強調している。彼らが、クスリでハイになったうえでそういった「仕事」に取りかかる例をいくつも見てきた、とマルコムは指摘する。
 「盗む」ことをせずに、自身の必要な、また正当な取り分を手にするにはどうしたらよいか。こんなような問いをマルコムXが立てているわけではないけれど、かれの構想にはつぎのようなアイディアがふくまれている。

 北アメリカの黒人は経済的にも病んでいる。つまり、消費者としては、本来消費すべき量より少なくしか消費できず、生産者としては、最低の生産しかはたせない。今日のアメリカ黒人には寄生生物的イメージしかない――白人アメリカという胃袋が三つもある太った雌牛の乳房にぶら下がっているために、自らも前へ向かって歩いているような錯覚を起こしている黒いダニだ。たとえば黒人が毎年、車に費やす金は30億ドルにものぼるにもかかわらず、アメリカには地区販売権を持って営業している黒人の自動車販売業者はほとんどいない。また高価な輸入スコッチ・ウィスキーの40パーセントは、偉ぶって見せたい俗物の黒人の喉に流れこむのに、黒人経営の醸造業者といえば、風呂桶だか森のなかでコソコソやっている密造業者だけである。さらに目も当てられないひどい話だが、ニューヨークには100万以上の黒人がいるというのに、黒人所有の会社で従業員10人以上のところは20社とない。黒人が自分たちの社会を安定させられないのは、黒人社会の販売組織を所有もしていなければ、支配してもいないからである*3


 生産手段をみずから所有すること! これはコミュニズムでしょう。この考えはコミュニズムにほかならない。


完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀)

完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀)


完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀)

完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀)

*1:[上巻:329-330頁]

*2:[上巻:44-5頁, 強調は引用者]

*3:[下巻:145頁, 強調は引用者]