公衆浴場

 ここ1週間ぐらい すこし ちょうしが わるかった。くびから かた せなかに かけて、すじが ごちごちに こりかたまっていて、よこを むくにも なんぎなほどでした。せいかつや しごとに とくべつ さしさわりが あるほど ひどくは なかったのですが。でも、こういう ちょっとした 体調不良でも、ほんを よむのに 集中できないし、ねるときの しせいは 制約されるし、ゆかいでは ないものです。
 こんなときは でっかい ふろで ゆったり からだを のばしたいなあ。そう おもって さくばん 半としぐらいぶりに ふろやに いってきました。そしたらば、きのうまでの 不調が まるで うその よう。まだ かすかに いたみが のこっているものの、すっかり かたの まわりが かるくなりました。
 それにしても からだが のばせるほどの おおきな おふろは きもちが よいものですなあ。ごくらく ごくらく。400えんで こんな ぜいたくな きぶんに なれるなんて さいこーですわ。
 でも まあ 400えんは まいにち かようには ちょっと たかいよな。おふろやさんも さいきんは おきゃくが すくないもので しかたがなく ねあげを しているところが おおいという はなしも ききます。
 わたしが きのう いった ふろやさんは、ゆぶねの おおきさに みあわないほど あらいばが だだっぴろいのですが、これも きゃくが はいらなくなったから そういうふうに 改修したのでは ないかと おもわれます。あらいばは 30にんくらいは からだを あらえるくらいの スペースと じゃぐちが あるのに、ゆぶねは けっこう こじんまりとしていて、7,8にんも つかれば もう いっぱいだろう、という かげん。たぶん 改修の おりに、コストを さげるため ゆぶねを ちっちゃくして、そのぶん あらいばが だだっぴろく なっちゃったのでは ないかと かんがえられます。その ふろやさんは きゃくの いりも いちどに 3,4にん いるか どうか、という かんじだし、でっかい ゆぶねでは 水道料金や 燃料代が かさんでしまいますからね。
 でも、たまにしか つかわない わたしが いうのも ナンですが、おふろやさんが 経営難で へってゆくのは ざんねんなことだと おもいます。おおきい ゆぶねは いいよ。
 じぶんの うちに ついているような からだを おりたたまないと はいれないほどの ちっこい ゆぶねでは、「ふろを あびた」という きぶんには いまいち なれないものです。ああゆうのは 「ふろの かわり」であって、ふろでは ない。まあ、ふろやの あいていない よなかや あさっぱらでも はいれるとか、わざわざ ふろやまで でかける ひつようが ないとか、そういう てんでは、じぶんの うちの 「ふろの かわり」が たしかに べんりなのですけど。あと、じぶんの はだかを たにんに みられるのが いやだという ひとも いるでしょう。
 そうは おもうものの、プライベートな 空間の 価値って なんだろう、というようなことも かんがえます。さっき、わたしは じぶんの すまいに くっついている ふろが 「ふろの かわり」のようなものだと いいました。それは、そうして くっつけられた ささやかな ふろは、ふろやさんの おふろや あるいは かねもちが もっている でっかい おふろの 「まね」みたいなものとして かつて ゆめみられたものじゃないのか、いわば さもしい こんじょうに ゆらいするものなんじゃないか、と おもったからです。
 かねもちではない ほとんどの にんげんにとって じぶんの うちに でっかい ふろは つけられません。でも、そんな 庶民にとっても かねもちが「じぶんの うちに ふろを もっている」こと自体が うらやましかったのでしょう。だから、ふろやに いけば おおきな ふろに ゆるりと つかれるのに、ちっこい ささやかな ふろを じぶんちに つくった。アパートぐらしを するひとも ふろなしの へやよりも ふろつきの へやの ほうが 「ぜいたく」な かんじがするように なった。そのうち じぶんの いえ・へやに ふろが ついているのが 「あたりまえ」と かんがえられるように なって いまに いたる。そうゆうことでは ないのかしら。
 でも、それって 「ぜいたく」なのか? 「あたりまえ」なのか? そんな ぎもんも ちょいと わいたりも するので ございます。さきほど ふれた、じぶんちに ふろが ついていることの 「べんりさ」にしたって、ほんとに それは 「べんり」なのか、と おもわなくも ありません。よるおそくに しごとを していたり、ながい じかん 職場に しばられていたりするために、わたしたちは ふろやに かよったり そのための じかんを やりくりしたりするのが おっくうに かんじます。しかし はんたいに、もし いちにちの うちの じゆうに つかえる じかんが ふんだんに あるならば、ふろやに かようのも 「ふべん」とは かんじないのかも しれません。いうならば、わたしたちは 賃金奴隷制のもと(いつも はなしが こういう 着地点に なっちまって すんません)、あたりまえの いとなみに 「ふべん」を しいられているのでは ないでしょうか?
 ふろの はなしに とどまらず 一般論としても、やつらは わたしたちの くらしの べんりさを うばったうえで、べつの 「べんりさ」を 「かわりに」 わたしたちに あたえるのです。それも 商品として、です。また、パブリックな ものとして あった ぜいたくを わたしたちから うばいとることで、かわりに プライベートな 空間を もつこと(所有・私有・占有すること)の 「ぜいたくさ」を わたしたちの みみもとで ささやくのです。でも、それは ほんとうに べんりなのか。また、ぜいたくなのか。これは とわれるべき といであるような きがします。