てんのうせいと はいせんご にほんの ナショナリズム

 ないかくが セッティングした てんのう アキヒトと ちゅうごくの ふくしゅせきの かいだんが 「てんのうの せいじてき りように あたるか どうか?」が、ちょっと まえから わだいに なって いるようです。こういった ことを ぎろんする ひとたちは、てんのうせい そのもの、てんのう という そんざい じたいは 「せいじてきで ない」と かんがえて いるのでしょうか? そう かんがえてるので なければ、ろんりてきに いって、その「せいじ りよう」が もんだいに される はずが ありません。
 しかし、あらためて いうのも ばかばかしいですが、てんのうせい そのものが きわめて せいじてきなので あって、umeten さんが おっしゃる とおり、てんのうは つねに せいじ りようされて いる わけです。


天皇は常に「政治利用」されている。○か×か - こころ世代のテンノーゲーム

そもそも象徴などという、体よく言っても欺瞞、悪し様に言えば嘘も方便でしかないものを、さも当然のようにとらえるというのは、酔っぱらいが「俺は飲んだ方が調子がいいんだ」とクダを巻きながら車を運転するようなものである。


 では、「てんのうせいが せいじてきである」とは どういう ことか?
 この といに たいしては、さまざまな アプローチが ありうるでしょうが、つぎの ふたつの てんが じゅうようだと おもいます。

  • はいせんご(敗戦後)の てんのうせいは、アメリカ がっしゅうこくの いこう(意向)ぬきには そんぞくできなかったで あろうし、また アメリカが せんりゃくてきに りようする ために そんぞくさせた ものである、という こと。したがって、にほんの ほしゅ せいけんと アメリカとの きょうはん かんけい(共犯関係)が もんだいに されなければ ならない。
  • アメリカは、せんぜんの にほんの ていこくしゅぎを ひきつぐ かたちで、あらたな ていこくしゅぎしゃとして ひがしアジアに くんりん(君臨)して いる こと。したがって、にほんと アメリカは、ひがしアジアに おける せんぜんから こんにちに つづく しょくみんちしゅぎの きょうはんしゃ(共犯者)であり、その めいはくな はんざいせい(犯罪性)を たしゃから とわれたり、あるいは みずから じかくしたり する ことを さけたい という よくぼうを きょうゆう(共有)して いる。


 おそらく、ここに、はいせんごから こんにちに いたるまでの、にほんの すべての あいこくしゃ ないし ナショナリストどもの きわめて げれつで はじしらずな ありようが ゆらいして います。「すべての」と かいたのは、うよくは もちろんの こと、てんのうせいを ようにんする リベラルや さよくも ふくめての はなしを したいからです。
 うえの ふたつの てんを ふまえると、にほんの ナショナリズムが ひつぜんてきに げれつで はじしらずな ものにしか なりえない こと、そして その げれつ きわまりない にほんじんの ナショナリズムが てんのうせいと みっせつに かんけいして いる ことが りかいできます。




 この ブログでは たびたび いんようして いるのですが、こんかいも さかい・なおき(酒井直樹)さんの ぶんしょうを さんこうに して います。
 さかいさんは、2000ねんの NHKの ばんぐみ「問われる戦時性暴力」の かいざん・けんえつを だいざい(題材)に とりながら、「日本と合州国の間で働いている空想上の分離*1の メカニズムを ぶんせきして います。かなり ながく なりますが、いんようします。

 ……この分離のお陰で、日本と合州国での戦後天皇制が言説としては連続的であり、共犯性をもっていることが見え難くなってしまうのである。ここで分離という言葉で私が示そうとしているのはこういうことである。
 あきらかに、戦後の天皇合州国によって作り上げられたものであり、それは満州国の皇帝制が日本の制度であった意味で、戦後の天皇制は合州国の発明になるものであった。確かに満州国皇帝溥儀は清朝最後の皇帝でもあったから、満州国を清の再興と考え清朝との連続性において肯定する満州国民主義者をあえて想定できないこともない。ちょうど戦後の日本国民の一部が天皇裕仁に向かってしたように、溥儀の存在を満州国民統合の根拠と看做し、彼の存在に基づいて満州国家の正統性を擁護しようとする満州国民主義者がいたとしても、そのような仮説そのものは全く不可能ではないだろう。そのような事態が本当に存在したのなら、満州国植民地経営のための全く形式的な正当化のために溥儀を持ち出してきた帝国主義者である「日本人である私たち」は、このような満州国民主義者を躊躇なく愚かしいと看做すだろう。同時に、帝国主義者としての「私たち」の欲望を充してくれる満州国民主義者に、ある種の、憐憫を含む愛着さえ覚えることになるだろう。彼らは帝国主義者を密かに翼賛する国民主義者ということになる。彼らの国民主義は、植民地主義から国民を独立しようとする古典的な国民主義とは似て非なるものになるだろう。
 もちろん、「私たち」の「日本人としての自尊心」はこのような被植民者の欲望を経由して充足されるのだから、「私たち」の欲望を満足してくれるこの倒錯した満州国民主義者に対しては、もちろん口に出して言わないだろうが、「なんと可愛い奴らだろう」と「私たち」は密かに感じてもおかしくはない。……彼らに対する哀れみを口に出していわないようにするのは、満州国の独立国としての建前を擁護したいならば、日本の帝国主義者満州国国民主義者のあいだの欲望の絡み合いは否定されなければならないからである。そのために、彼らにむかって、満州と日本は全く分離していること、お互いに独立していることを「私たち」はいい募るだろう。もちろんこれは空想上の事態であるが、同様の事情が戦後天皇制にはある。太平洋を跨いで、日米の欲望の絡み合い(抱きつき合い)とその否認としての日米の分離があるのである。
 日本政府と日本の保守勢力の大部分はこの合州国が作り上げた制度を全面的に肯定し協力してきたから、戦後に定着した天皇制は合州国と日本の間のいわば合作であると考えるのが妥当であろう*2


 アメリカと にほんによる 「がっさく(合作)」として つくられた せいどには、ここで あげられて いる てんのうせいの ほかに、じえいたいを くわえても よいでしょう。
 じえいたいも また、てんのうせいと おなじく、にほんを じゅうぞくさせる ために アメリカによって つくられた せいどで ありながら、にほんの 「どくりつせい」を えんしゅつする こうかを はっきして います。
 そもそも、じえいたいは、ちょうせん せんそうへの しゅつげきで てうすに なるせんりょう ぐん(占領軍)の ちあん いじ のうりょくを おぎなう「けいさつ よびたい(警察予備隊)」として せつりつ された ものです。げんざいの じえいたいも、しみん うんどうを かんし(監視)する ことを、その にんむの ひとつと して います*3。つまり、じえいたいは ほっそく いらい、その ぶきを にほんの じゅうみんにも むけて きた わけです。
 ところが、にほんの ナショナリストは おろかな ことに、じえいたいが 「にほん(じん)を まもる ぐんたい」すなわち「どくりつ こっか にほん*4」の あかしであると かんちがい して おります。おどろくべき ことです。
 てんのうせいも これと おなじで、にほんを じゅうぞくさせる しゅだんで ありながら、そうした じったいを おおいかくす はたらきを もって います。はいせんと れんごうこくに よる せんりょうを へた あとも、にほん せいふは いっかんして アメリカがっしゅうこくの かいらい せいけんで あったし いまも そうである はずですが、「ばんせーいっけーの やんごとなき テンノーヘーカが どくじの でんとうと ぶんかを もった にほんの そんざいを ほしょうして くれる」という わけです。




 わたしは さきに、ナショナリストが 「おろかな ことに」「かんちがい」して いるのだ という かきかたを しました。しかし、こういった 「かんちがい」は、おろかさに ゆらいする という よりは、むしろ 「じこ ぎまん」と いうべき ものです。
 げんじょうに おいて、にほん こっかが ぐんじてき・がいこうてきには がっしゅうこくの せかい せんりゃくの コマでしか ないこと、にほんの ナショナリストナショナリストであるにも かかわらず、そうした げんじょうを ただ だらしなく ついにん(追認)して いる という こと。これは みたままの あからさまな げんじつで あって、それが みすごされて いるのは ただ たんに おろかさに よるものとは かんがえられません。
 だから、もんだいに すべきなのは、さかい・なおきさんの いう 「にちべいの よくぼうの からみあい」であり、「きょうはんせい(共犯性)」です。




 さきに のべたように、にほんと アメリカは、せんぜんから こんにちまで つづいて いる ひがしアジアに おける しょくみんちしゅぎの きょうはんしゃ(共犯者)です*5。そして、その はんざいせい(犯罪性)を たしゃから とわれたり、あるいは みずから じかくしたり する ことを さけたい という よくぼうを きょうゆう(共有)して います。
 アメリカは にほんの せんそうと しょくみんち しはいの せきにんを はなはだ ふじゅうぶんにしか とわずに、にほんを 「こくさい しゃかい」に ふっきさせた。にほん せいふも アメリカの せかい せんりゃくの コマと なる ことを えらんだ。
 いわば、おたがいが おたがいの しょくみんち しゅぎを みすごす という かたちで、この ふたつの こっかは きょうはん かんけいを むすんで いる わけです。




 そして、はいせんから げんざいに いたるまで、にほんの ナショナリズムは しゅくめいてきに このような じょうけんを まぬがれる ことが できないのです。つまり、こてんてきな ナショナリズムが 《かくめい》 もしくは 《たたかい》から かたちづくられるのと ちがって、にほんの ナショナリストたちを たばねる ものは、かれらが 「われわれ」と よぶところの しゅうだんの しょくみんちしゅぎ・しんりゃくの せきにんから めを そむけ ひにん(否認)する、はじしらずで ぶざまな ふるまいの ほかに ない という ことです。




 こてんてきな ナショナリズム、すなわち 《ブルジョア かくめい(フランス かくめいなどの 「しみん かくめい」)》や 《しょくみんち かいほう とうそう》を つうじて かたちづくられる ナショナリズムは、ふへんしゅぎてき(普遍主義的)な りねんを せっちゃくざいに して ひとびとを むすびつけます。そうした かくめいや せんそう、あるいは うんどうは、《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》への ていこうとして たたかわれるのですから、そこでは ひつぜんてきに 「じゆう」「びょうどう」といった ふへんしゅぎてきな りねんが かかげられます。
 わたしが ここで 「ふへんしゅぎてき」と いったのは、そうした りねんは、それが かかげられるや いなや、せかいじゅうの あらゆる 《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》を もんだいにし、ひはんする かのうせいを、よくあつされた すべての にんげんに むかって ひらくからです。その りねんを かかげた ひとや みんぞく しゅうだんも、もし しはいや よくあつに かたん(加担)するならば、その みずから かかげた りねんに よって、たしゃからの ひはんと ていこうに さらされるでしょう。
 ナショナリズムの うんどうの せいかとして あたらしく うまれた こっかも、やはり よくあつや さべつなどを おこなうでしょう。しかし、そうした よくあつや さべつは、ナショナリスト じしんが かかげた りねんによって たえず ちょうせんを うける かのうせいが すでに ひらかれて いるのです。




 これに たいし、にほんの ナショナリズムは、アメリカと けったくして しょくみんちしゅぎに ほおかむりし ごまかそう という よくぼうによって 「にほんじん」どうしが むすびつこうとする もので ある いじょう、ふへんしゅぎてきな りねんを もちようが ありません。だから、「にほん こゆうの でんとう(伝統)」だとか 「ちすじの けいぞくせい」だとかを でっちあげるしかない。それが てんのうせいです。アメリカとの 「がっさく(合作)」に よって せんごに つくりあげられた てんのうせいが、「にほん こゆう」だとか 「でんとう」だとか もちあげられる ことの こっけいさ。
 にほんの ナショナリズムが しょくみんちしゅぎの 《しはい・よくあつ・さくしゅ・さべつ》にたいする ほおかむり、ごまかし、いなおりの さんぶつでしか ない ことは、「在日特権を許さない会」や 「新しい歴史教科書をつくる会」などの うんどうに、もっとも てんけいてきな かたちで あらわれて います。
 かれらを むすびつける ものが、にほんの しょくみんちしゅぎの せきにんを とう こえに たいする はんどう(反動)に ほかならない ことは、あきらかです。
 かれらは 「わたしたち」が せきにんを とわれうる ことを あらかじめ しって いるからこそ、それを とわれる まえに、いわば せんせい こうげき(先制攻撃)の ごとく、それを ひにん(否認)しようと するのでしょう。
 もう いちど、さかい・なおきさんの ろんぶんから いんようします。

 それにしても、これは興味深いことではないだろうか。人は、空想された恥のシナリオと空想された告発のシナリオを恐れるからこそ、恥から避けようとし応答を拒絶する。本質的に、「恥の不安」は空想の次元で起こる、優れて文化的な事件なのである。既に、人は有罪の嫌疑を受けることを予想しており心の中では承知しているのである。恥と責任の忌避がしばしば暴力的な身振りを伴うのはこのためなのではないのか。無恥とは自らが恥をかくことの空想への反応であり、無責任は問責者への空想上の応答なのである。つまり、無恥と無責任を決め込む者も、推定された問責者に応答してしまっているのである*6


 「ざいにち とっけん」とは よく いった ものです。また、かれらは 「ざいにち ちょうせんじんが にほんじんを さべつして いる」と いいます。
 あきらかに、かれらは じぶんたちが とわれうる せきにんとは なんなのか、ぐたいてきに しっている。つまり、にほんにおいて にほんじんが ちょうせんじんに たいし とっけんてきな たちばに あり、そうした みずからの たちばを いじする ことが ちょうせんじんに たいする さべつである こと。その ことが まさに せきにんとして とわれうることを こころの なかで しょうちして いるからこそ、それが とわれる まえに 「じえいの ための せんせい こうげき」を しかけようと するのでしょう。
 また、かれらが しばしば こうげきの ために ならべたてる 「ふほう せんきょ」「らち」「レイプ」とは、まさに にほんじんが しんりゃく せんそうと しょくみんち しはいにおいて おこなって きた ことです。




 ただ、ここで もう ひとつ とわなければ ならないのは、これは 「かれら」の ような エキセントリックな うよくだけの もんだいなのか、という てんです。
 げんじつに よくあつや さべつが ある いじょう、それに よって りえきを うけとって いる ひとは、よくあつ・さべつを うけて いる ひとからの いぎ もうしたて・ひはんに さらされる かのうせいから のがれられません。もちろん、ほとんどの ひとは、ある ばめんでは よくあつする がわに あり、べつの ばめんでは よくあつされる がわに ある、というように、その かんけいせいは こみいって おります。しかし、というか だからこそ、わたしたちが よくあつや さべつに たいして とりうる たいどは、ふたとおりしか ないように おもいます。
 ひとつには、おたがいが おたがいの ふせいぎを みのがしあう という かんけいに とじこもろうと する こと。もう ひとつは、ふせいぎを ふせいぎと うけとめ、それを ただして いく ために やれる ことを やって いく こと。
 むろん、じぶんに できる ことは かぎられて いるし、ひとに よって 「できる こと」の ていどと ないようは ことなるでしょう。けれども、たいどとしては その つど ふたつの うち ひとつを えらんで ゆくより ほか ありません。
 そして、よくあつや さべつを つくりだして いるのは、ざいとくかいだけでは ないのだから、これは わたしたちの ほとんど、とりわけ にほん こくみんという、にほんに おいて よくあつ・さべつする がわに たって いる ものが れいがい なく とわれる せんたくだと おもいます。

*1:きょうちょうは いんようしゃ。

*2:酒井直樹『日本/映像/米国――共感の共同体と帝国的国民主義』2007ねん(青土社) 226-7ページ。

*3:さんこう リンク → ポラリス−ある日本共産党支部のブログ 自衛隊が市民団体監視 「内部文書」を共産党が入手

*4:ここは ちからを こめて 「にっぽん」と かいた ほうが よろしかったでしょうか?

*5:ここでは、もちろん こてんてき(古典的)な 「しょくみんちしゅぎ」の がいねんを かくちょう(拡張)して 「しょくみんちしゅぎ」と いって おります。つまり、つぎの ふたつも ふくめて、「しょくみんちしゅぎ」の もんだいと とらえて います。
(1)めいもくじょうは しょくみんち しはいから 「どくりつ」した 「しゅけん こっか」に たいし 「もと・そうしゅこく(元宗主国)」による じじつじょうの しはいが およぶ 《しん・しょくみんちしゅぎ(新植民地主義)》の もんだい。
(2)がいこくじん じゅうみんに およぼされる しょくみんちしゅぎてきな ぼうりょくと さべつの もんだい。

*6:261ページ。