「ことばが とどいて しまう」ことに ついて

じぶんの ことばが とどいて しまう ことは、
いつも よろこばしい わけでは なくて、
おそろしかったり、もうしわけ なかったりも。


まえに かいた とき あったかも だけど……。


ずいぶん まえに、
かんこくを たびした とき、
やどの ねんぱいの しゅじんに
「にほんごが ふじゆう なく、つうじて しまう」
という ことに、
ふくざつな きもちに なった。


「ことばが とどいて しまう」という ことが、
どういう ことなのか?
「ことばが とどく」ことを
あたかも しぜんで あたりまえの ように
かんがえて しまいがちだけど、
やはり それは 「しぜん」でも「あたりまえ」でも
ありえないのだと いう こと。


これも おなじ かんこく りょこうでの はなし。


シモノセキから フェリーで プサンに わたった。
プサンの みなとには、
あれ なんて いったかな、
ごはんを のりで まいたもの
あの ごまあぶらの かおりが こうばしいのを
あきなう じょせいが いた。


わたしは ちょうせんごが できないので、
かのじょが なにを いって いるのかは
よく わからなかったし、
かのじょも わたしが ちょうせんごが できない ことを
わかって いたのだろうけど、
かのじょは わたしに はなしつづける ことを
やめなかった。


「しょうばい」とか 「とりひき」とか、
もっと いえば 「コミュニケーション」というのは、
ああ こういう ものを こそ いうんだよなあ、と
ふかく なっとく させられたのを
いまでも よく おぼえて いる。


コミュニケーションを かのうに する
もっとも きほんてきな じょうけんとは、
「あらかじめ おたがいが
いわゆる コードというもの、
ぶんぽうの やくそくごととか ボキャブラリーとかを
きょうゆう して いる こと」
では ない。


コードが きょうゆう されて いなくても、
あいてに かたりかける こと、
そして その かたりかけられた あいてが
はんのうして しまった その しゅんかんに、
すでに コミュニケーションは はじまって いる。
その いみで、
コミュニケーションの
もっとも きほんてきな じょうけんとは、
かたる いしを もつ こと、そして かたりつづける ことに
ほかならないのだと おもう。


もっと いえば、
「ことばが とどかない」という ところから しか
コミュニケーションは はじまらないようにも おもう。
あいてに あらかじめ コードが
きょうゆう されて いる という ことを
「あたりまえ」の ぜんていに して しまった とき、
コミュニケーションが はらんで いる ぼうりょくせいが
みえなく なって しまう。


かたりてに とって、
「ことばが とどく」という ことが
「あたりまえ」「しぜん」に なって いるとき、
その かたりては、
その あいてに たいして
じぶんと おなじ コードを みに つける ことを
じかく しない ままに
ようきゅう して いたりも する。
あるいは、
「ことばが とどいて しまう」というのが、
じぶん(たち)が たにんに
その コードを がくしゅう する ことを
むりじい した けっかに すぎない ことも
しばしば あるように おもう。

                                  • -

この きじは、
まえに かいた
「こくご はいしろん じょせつ」への ほそくという きじの
いちぶ やきなおしです。