とうひょうは せいじ さんか なのだろうか?

 せんきょで ひょうを とうじる というのは、いっしゅの ぎしきに さんか する という こと いじょうの いみは ない。わたしは ずっと そう おもって きた。
 ゆうけんしゃでない ひとは とうひょうに さんかできず、ゆうけんしゃだけが とうひょうに さんかできる。ゆうけんしゃが とうひょうに さんか するのは、みずからが 「ゆうけんしゃ」である ことを かくにん しに ゆく こういなのでは ないだろうか?




 とうひょうじょに あしを はこび、とうひょう ようしに こうほしゃ もしくは せいとうの なまえを かき、とうひょうばこに いれる。
 せんきょ という イベントから これらの こうい だけを きりとって みた ばあい*1、これが きわめて いようなのは、それが なにかに たいする はたらきかけでは ない という こと、それが なにに たいしても えいきょう しない という てんである。
 いうまでもなく、わたしの いっぴょう――たったの いっぴょう――が、せんきょの けっかに えいきょうを あたえる かくりつは、ほぼ ゼロに ひとしい。いっぴょうの さで、ある こうほしゃが とうせん したり らくせん したり する ことなど、ごくごく まれに しか おこりえないのだから。その いみで、ゆうけんしゃの いっぴょうなど、ぱりぱりに かわいた カレハより かるい。
 しかし、わたしが ここで アクセントを おきたいのは その ことでは ない。「えいきょうりょくが ごくごく わずかしか ない」という ことが、「それを おこなう いみが ない」ことを いみする わけでは かならずしも ないからである。
 わたしに いように みえる てんは、うえで きりとった ような ものとして、とうひょう という こういを みた ばあい、それが なにかに はたらきかける けいき(契機)が、(「ゼロに ひとしい」のでは なく) もじどおり ゼロである ところに ある。




 ちょっとした たとえばなしを したい。
 90ぷんの サッカーの ゲームで、たった いちどしか ボールに ふれなかった せんしゅが いたと する。
 ゲームの けっかや ないように たいする その せんしゅの えいきょうりょくは ごく わずかな ものでしか なかったとしも、それは ゼロでは ありえない。
 その せんしゅは ゲームが おわった あとに、「もし……」と とう ことが でき、また 「じっさいには おこらなかった こと」「おこったかも しれない こと」を、じぶんの おこないとの かんれんに おいて、そうぞう することが できるだろう。
 もし、その いちどきりの ボール・タッチが なかったなら、ゲームは 「じっさいに あった もの」と ちがった ものに なって いた はずなのだ。じっさいに おこった できごとは、その せんしゅの ささやかな ボール・タッチなしには なかったであろう できごとなのであって、じっさいに おこって しまった できごとから その せんしゅの たった いちどの ボール・タッチを ひきざん する ことは できない。
 そして、かりに その せんしゅが チームに こうけん する つもりが まったく なく、ゲームに おいて ボールに ふれる ことを さけ つづけた としても、その ひとが ゲームに たいして なんの はたらきかけをも もたない ことは、ふかのうである。ゲームに むかんしんを きめこんで ただ つったて いたのだ としても、その せんしゅが なにも せずに つったている こと それ じたい、また その つったって いる いちに よって、その ひとは ゲームに はたらきかけ、えいきょうを もたらして いる。そんざい する だけで、その ひとは すでに たしゃへの はたらきかけを して しまって いる。




 わたしたちが 「しゃかいてきに そんざい して いる」というのは、そういう ことなのだと おもう。
 わたしが たしゃに はたらきかけて しまう という ことは、どうしても さける ことが できない。「なにも しない」という ことを えらんだと しても、また じさつの ような かたちで じぶんの そんざいを けす ことすらも、たしゃに はたらきかける ことである。
 したがって、じぶんの おこなった、あるいは おこなわなかった こういを ふりかえる ことは、どうじに、もしかしたら ありえた かもしれない かのうせい としての せかいを イメージ する ことでも ある。
 だから、こうも いえる。つまり、わたしが なんらかの こういを おこなったり おこなわなかったり する ことを えらぶ という ことは、その こういが なくては ありえなかったであろう せかいの かのうせいを ひらく ことなのだ、と。たとえ、わたし ひとりに できる ことが、どんなに ちっぽけなのだと しても。




 こうして かんがえて みた とき、せんきょ という せいどは、ひとり ひとりの にんげんの しゃかいせいを はぎとる もの として あるのでは ないかと おもえて くる。
 せんきょでの かちまけは、たんに それぞれの こうほしゃや せいとうへの とうひょうを かぞえる こと、すなわち たんなる たしざんに よって きまる。
 たしざん された ものは、あとから ひきざん する ことが できて しまう。わたしが とうひょうした こうほしゃが かりに 53442ひょうを かくとく したのだと すれば、「もし、わたしが とうひょう しなかったら」その ひとは 53441ひょう かくとくした だろう。ここでは、「もし……なら」と、わたし じしんの おこなった こういを ふりかえって、ありえたかも しれない かのうせいの せかいを そうぞう する ことが、ばかばかしい、ほとんど ナンセンスの きわみとしか いえない しろものに なって いる。
 しかも、とうひょうは むきめいで おこなわれる。それが むきめいで おこなわれるのは、とうひょうしゃの じゆうを ほしょうする という りゆうからであるけれども、どうじに それは とうひょう という こういに ついて とうひょうしゃ こじんが せきにんを とわれる かのうせいを はぎとる ことでも ある。むきめい とうひょうとは、わたしが 「だれに とうひょう したのか?」という ことを かくすだけでなく、そもそも わたしが ほんとうに「とうひょうようしに こうほしゃの なまえを かいたのか どうか?」すらも いっさいの たしゃの めから かくす ことでも ある。
 「むきめい」という てんでは、たしかに、たとえば インターネットの けいじばんに とくめいで なにかを かきこむ といった こういも おなじでは あるだろう。しかし、この ばあい、とくめいで あっても、かきこまれた ことばは たにんの めに ふれるのであり、したがって その こういは たしゃへの はたらきかけである。だから、かきこみを おこなった ひとは、じぶん じしんの こういを あとから ふりかえり はんせい する よちが ある。「あんな かきこみを しなければ……」「もし、ああではなく べつの かきかたを して いれば……」などと。
 ところが、せんきょに おける むきめい とうひょうは、そういった かたちで じぶんの こういを ふりかえる ことが むいみに なるような せいどである。なぜなら、それは はたらきかけるべき いっさいの たしゃから きりはなされた(と みなされた) みっしつで おこなわれる ぎしきであるからである。




 なぜ、おおくの ゆうけんしゃは とうひょうじょに あしを はこぶのだろうか?
 とうひょうは、しばしば 「いし ひょうめい」に なぞらえられる。しかし、いじょう のべて きた ように、とうひょうに よって 「わたしの いし」を ひょうめい する ことは できない。
 せんきょの けっか、わたしたちの めの まえに あらわれるのは、「ゆうけんしゃの いし」「ゆうけんしゃの せんたく」で あって、「わたしの いし」「わたしの せんたく」では ない。しかも、「ゆうけんしゃの いし」や 「ゆうけんしゃの せんたく」は、ひょうを かぞえる たしざん という さぎょうを とおして、かちまけ という けっかから さかのぼって あとから*2 みいだされる ものに すぎない。
 つまり、とうひょうに さんか した ものは、せんきょを とおして、じぶんが じぶん じしんを ふくむ 「わたしたち ゆうけんしゃ」の ひとりである ことを かくにんするのだ という こと*3。だとすると、おおくの ひとが とうひょうじょに あしを はこんで いる という じじつには、「わたしも ゆうけんしゃの ひとりだもんね」と おもいたい よくぼうが はたらいて いる ところも あるのでは ないだろうか?




 わたしは、まが さして つい とうひょうに いっちゃった ことが なんどか あるのだけど、なぜか いままでの ところ、「じぶんが とうひょうひょう した こうほしゃが みんな らくせんする(れいがい なし)」 という ふしぎな ふしぎな ジンクスが ある。だから、「ゆうけんしゃ としての いしひょうめい」とか 「ゆうけんしゃ としての せんたく」など、わたしとは なんの かんけいも ない という おもいしか いだけないで きた。まけた ものに とっては、せんきょとは たすうしゃの いしを むりやり おしつける ぼうりょくでしか ない。
 さらに、にほんの いまの せんきょ せいどは、にほん こくせきを もたない じゅうみん などを 「ゆうけんしゃ」から はいじょ して いる。つまり、これらの ひとたちに たいしても、せんきょは ぼうりょくてきな おしつけに ほかならない。
 そういう わけで、わたしは すくなくとも いまの せいどの まま、せんきょが おこなわれる ことには はんたいだし、その けっかとして あらわれた 「ゆうけんしゃの せんたく」を そんちょう する つもりも ない(わたしに とって つごうが よければ そんちょう してる かのように ふるまう つもりだけど)。

*1:「せんきょ という いべんと」を、たとえば せんきょ うんどう――ある とくていの こうほしゃや せいとうに とうひょう すること、あるいは とうひょう しない ことを たにんに よびかける こと――を ふくめて とらえるなら、はなしは べつである。

*2:事後的・遡及的に

*3:じぶんが 「ゆうけんしゃ」の ひとりで ある ことを かんじたい ひとは、とうせんする みこみの たかい こうほしゃに ひょうを いれようと するだろう。せんきょでの じみんとうの つよさは、そこに げんいんの ひとつが ありそうな きが する。
 また、「きょうさんとうの こうほしゃが ベストだけど、どうせ かつ みこみの ない ひとに いれても しにひょうに なるだけだから、じみんとうよりは マシな みんしゅとうの こうほに とうひょう する(した)」みたいな ことを いう ひとが けっこう いますね。それも やはり、「かちうまに のった ほうが、じぶんが ゆうけんしゃの ひとりとして いしを ひょうめい したと じっかんできて まんぞくしやすいだろう」とゆう けいさんが はたらいてるんじゃないかな?