よぞらの つきを さす ゆび

 「ちえの ある ものが よぞらの つきを ゆびさす とき、おろかものわ その ゆびを みて いる」
 どこかの くにに そんな ことわざが ある という はなしを どこかで だれかから きいた おぼえが ある。からの くにの ことわざだと きいた ような きが するが、からの くにに ほんとうに そんな ことわざが あるのか どうかわ、しらない。わたしにわ からの くにの もじわ よめないから。
 ともかく、この 「おろかもの」と される ひとは 「ゆび」を みるのを やめなければ、それが さして いる「よぞらの つき」を みる ことわ できない。「よぞらの つき」を みる ことが できたなら、その とき 「ゆび」わ 「おろかもの」の めから きえさって いる はず。
 しかし、この「おろかもの」と される ひとが 「おろかもの」でわ なく なる という こと、この ひとに とって ちえの ある ひとの 「ゆび」が みえなく なる こととわ、どういう ことなのだろう?




 《もじ》と 《いみ》、あるいは 《こえ》と 《いみ》の あいだにも、ちえの ある ものの 「ゆび」と 「よぞらの つき」の あいだに あるのと にた かんけいが ある。
 《もじ》の かたちや せんを いしき して いる かぎり、その 《いみ》を うけとる ことわ できない。わたしたちわ 《もじ》を すかす ようにして、その むこうの 《いみ》を みて いる。むこうから 《いみ》が とどいて いる とき、その てまえに ある はずの 《もじ》わ いしきから きえさって いる。
 《もじ》わ まず 《いみ》を みる ことを さえぎる ふとーめいな かべの ような もの として ある。わたしに とって みしらぬ 《もじ》わ、《いみ》を つたえる めでぃあでわ なく、《いみ》に たどりつくのに たちはだかり、《いみ》と わたしを へだてる かべとして ある。《もじ》が かべである ことを やめて とーめいに なった とき、はじめて 《いみ》が やって くる。
 また、《こえ》の むこうの 《いみ》を うけとって いる とき、《こえ》は ききての いしきから しりぞいて いる。わたしが なにを いって いるのか、その 《いみ》が あなたに つたわって いるなら、その つたわって いる ぶんだけ、あなたには わたしの 《こえ》が きこえて いないのだろう。




 「ひとの はなしを きく」という ことを、あいてから ただ 《いみ》だけを うけとる ことだと とらえるのわ、ひどく みがってな かんがえだ。あなたに むかって 「きみの いいたい ことわ わかる」などと いう ものわ、かならずしも あなたの 《こえ》を きいて いない。「いいたい ことわ わかる」と いって いる にんげんわ、かれの あたまの なかで おのれの みがってな 《いみ》を こねまわして いる だけで、あなたの 《こえ》を きく つもりすら ないかも しれない。
 《いみ》わ、それを あたまの なかに たっぷり つめこむ ことで、おのれの ぜーじゃくな えごを まもって くれるかの ようだ。いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ・いみ……。あたまんなかに あるのは おのれに つごうの よい 《いみ》ばかり。
 わたしたちの えごにわ、たにんの 《こえ》を けしさって、じぶんに とって つごうの よい《いみ》だけを うけとろうとする よくぼーが たしかに ある。えごわ かんねんの ていこくを ゆめみる。《こえ》と 《にくたい》の ない、あたまの なかの かんねんだけから なる ていこく。
 はくぶつかんの ような しせつ。はくらんかいの ような もよおし。あるいわ、ネモせんちょーの せんすいかん。それらが みわくてきに かんじられるのわ、おそらく えごの よくぼーと かんけいして いる。たにんと であわない まま せかいを みずからの ての なかに、あるいは しやに おさめたい という よくぼー。
 えごわ 《にくたい》を にくみ、けしさりたいと ねがう。いたんだり うずいたり おとろえたり くたばったり する 《にくたい》が なければ よいのに、と。




 わたしの ように かんねんてきな にんげんが、かんねんてきで ある ことを やめる ことわ たぶん できないだろう。ならば せめて じぶんが 「とじこめられて いる、というか むしろ 「とじこもって いる」という じかくわ ひつようだろう。
 あなたが たにんの はなしから なんらかの 《いみ》を うけとって いる とき、その 《いみ》にわ おさまり きらない 《こえ》が たしゃから はっせられて いるのだ という こと。その 《こえ》を あなたわ とーめいか して きいて いないから こそ、《いみ》を うけとる ことが できるのだ という こと。できるならば、その 《こえ》にも みみを かたむけよ。