ブロガーズ@io

 『月刊イオ』の 12がつごうに げんこーを かかせて いただきました。
 わたしの げんこーわ 『イオ』の ウェブサイトでも よむ ことが できます。


イオWebマガジン | ことばの「けんいしゅぎ」


 『イオ』わ、すこし まえから てーきこーどくを して おり、まいつき あいどく してます。
 こんげつごうでわ、李柄輝(リ・ビョンフィ)さんの 「100周年に終わらせない記憶の束を」という エッセイが いんしょうてきでした。李さんわ この エッセイを つぎの ように かきだします。

 小学生の頃、祖父母と父の「親子の会話」が不思議でたまらなかった。祖父母は父に嶺南訛りの朝鮮語で語りかける。父はその言葉をすべて理解できたというが、答える言葉は日本語であった。


 つづきわ、『イオ』で およみください……。


 しょくみんちしゅぎ こっか ニッポンわ、李さんの おとーさまから もじどおりの いみでの 「ぼご(母語)」を うばいました。また、かれの そふぼから「ぼごを はなす むすこ」を うばいました。
 李さん じしんわ、ちょうせん がっこうで まなび ちょうせんごを 「とりもどし」ました。しかし、李さんが かいて いるように、「だが、それは母語としてではない」。
 まさに、にほんわ 李さんや その ちちおやから、けっして あとから とりもどす ことの できない ものを うばったのだ という ことです。
 このような じょうけんの なかで、いかなる 「じこ かいふく」が ありうるのだろうか? とりもどしえない ものを うばわれた ときに、なにを どうやって「とりもどす」ことが できるだろうか?
 これわ じづらだけを うすっぺらく なぞるなら、「ふかのうな とい」にしか みえない。でも、このような といにも いどんできた ひとが いて、じっさい そこから あたらしく きりひらかれつつ ある みちが あるのだ という こと。「ふかのう」に みえる といを ムダと みる かんがえこそが あさはかなのだ という こと。わたしわ そのことを、この 李さんの ぶんしょうや、それぞれの ばしょで うばわれた ものを 「とりもどす」ために たたかって いる さまざまな ひとたちから まなんで きたように おもいます。
 そういう わけで。にほん こっかわ いまなお ちょうせん がっこうや みんぞく きょういくえの ぼーがいを*1 こころみて いるけれど、それこそ むだな てーこーなのであって、ただちに てーこーを やめて こーふく しなさい、これいじょー はんざいを かさねるな。と いいたいです。

*1:「こうこう むしょうか」の たいしょうから ちょうせん こうこうを はずそうと する うごきに みられるように、ちょうせん がっこうに ふりな あつかいを する いっぽうで、「にほんじん」に なる ことを むりじいする にほん がっこうを ゆうぐう する という、いわば「ダンピング」にも にた きょういく ぎょうせいを にほんわ はいせんご いっかんして おこなって きた。

*2:カギカッコも きじの タイトルの いちぶです。