アサヒと サンケイの かれいなる チームプレイ
ここで わたしの かく ことわ、わかる ひとにわ せつめい される までも なく わかる こと であり、あたりまえの はなしだと おもいます。わたし じしんわ どうなのかと いえば、そう あたりまえの ことでも なく、ながい あいだ きづかずに すませて きた ことでも あります。それに きづかずに いられる という ことが、その ものの とっけんてきな しゃかいてきな いちを あらわして いると おもいます。
さて、『あさひ しんぶん(朝日新聞)』が、3がつ 3にちづけで つぎの ような しゃせつを だして おります。
2ねんまえに はじまった こうこう むしょうか せいど から、ちょうせん がっこうが さべつてきに はいじょ されて いる もんだいに ついて、この しゃせつわ、いちおう ちょうせん がっこうにも むしょうかを みとめる べきだ という ことを のべてわ おります。しかし、その ぶんしょうの かきかたわ、たいへんに おんきせがましく、えらそうで、ごうまんです。「あんた、いったい なにさまの つもりなの?」と あきれはてて しまいます。
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。
その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。
多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。
しゃせつわ、ここで まず 「がっこうがわわ ひらかれた きょういくえの しせいを しめしつつ ある」などと、ちょうせん がっこうに 「ひょうか」を くだす いちに みずからを おいて います。オレさまわ ひょうか する がわで あり、ちょうせん がっこうわ オレさまに よって ひょうかを くだされる がわなのだ、という わけです。
そして、きょうしつに しょうぞうがを かかげるのを やめろ とか*1、ちょうせんの マイナスの ぶぶんも おしえろ とか*2、ようきゅう して います。
ようするに、『あさひ』の いって いる ことわ こうです。すなわち、「あなたたちの がっこうに にほん せいふが むしょうかを てきよう する ことに、さんせい して やっても よい。ただし、オレたち 『リベラル』で 『りょうしんてき』な にほんじんさまにも みとめられやすい ように、じしゅてき かいぜん*3の どりょくを しろ!」と。これわ どうかつ いがいの なにものでも ありません。ひどい ものです。
そもそも、にほん せいふわ、ちょうせん がっこう いがいの がっこうに たいしてわ、きょういくの 「ないよう」にわ ふみこまず、カリキュラムが きじゅんを みたして いるか どうかの 「けいしき」だけを みて、むしょうかを てきよう して いる わけです。ちょうせん がっこうに だけ、さまざまな じょうけんを つけて、てきようを ほりゅう して いる というのが げんじょうです。この あたりの ことわ、たとえば いかの ブログ きじに くわしいので、ぜひ さんしょう して ください。
●その眼差しから目を逸らすことは許されない - 日刊イオ
●「朝鮮学校を閉鎖しろ」と言わしめてしまう状況を危惧する - 日刊イオ
●いつまで朝高生を苦しめる? - 日刊イオ
また、にほん せいふが、1945ねんの はいせん いこうも、みんぞく きょういくを しえん して こなかった ばかりか、いっかん して だんあつ して きた ことも、わすれてわ なりません。にほんわ、ざいにち ちょうせんじんたちが 1945ねんの かいほうを へて にほん かくちで じしゅてきに つくり、そだてあげて きた ちょうせんじん がっこうを もじどおり ぼうりょくてきに だんあつ する いっぽうで、にほん がっこうに かよう ことを きょうせいし、あるいは そう しむけて きました。その けいいわ、この ブログでも まえに しょうかい した ことが あります。
●「ちょうせん がっこうの せいとたちは すんだ めを している」 - やねごんの にっき
『あさひ しんぶん』ごときに 「じしゅてき かいぜん」を しろ などと せっきょう されなくとも、ざいにち ちょうせんじんわ じしゅてきに きょういくの ばを つくり あげて きたのです。それを ぼうがい して きたのわ だれですか? にほん せいふ であり、もんぶしょう(→もんかしょう) でしょう?
ちょうせんじんたちの みんぞく きょういくを だんあつ しながら、にほん がっこうでわ、それを のぞまない ひとたちにも にほんじんに 「なる」ための みんぞく きょういくを おしつけて いる。こういう ことを にほんの きょういく ぎょうせいわ ずっと やって きて いる わけです。
そして、こんかいの 『あさひ』の しゃせつの ように、にほんじんや にほんの ナショナル・メディアわ、ちょうせん がっこうに オレさまの いう じょうけんを のめと せまる。くりかえしに なりますが、これは どうかつと いう べきです。
しかし、ねが ふかい もんだいだと おもうのわ、おそらく この しゃせつを かいた きしゃたちわ、じぶんたちの やっている ことが どうかつに ほかならない という ことを じかく して いない だろう という ことです。たぶん、この ひっしゃたちわ、じぶんたちが どちらかと いえば 「リベラル」で 「かんよう」で、いくらか 「りょうしんてき」だとすら にんしき して いる ことでしょう。だって、「さんけい しんぶん」の ような 「うよく」で 「さべつ しゅぎしゃ」の れんちゅうと ちがって、オレたちわ ちょうせん がっこうが むしょうか てきよう から はいじょ されて いる ことに、はんたい して いるのだから。
なるほど、『あさひ しんぶん』は、『さんけい しんぶん』のような うよくと くらべれば 「リベラル」です。たしかに、『さんけい しんぶん』ほど ろこつにわ ちょうせん がっこうを 「にほんの てき」と なざす ような かきかたわ して いない かも しれません。ちょうせん がっこうにも むしょうか てきようを みとめる べきだと しゃせつでも かいて いるのですから、『さんけい しんぶん』よりわ 「かんよう」と いえる かも しれません。
しかし、『さんけい しんぶん』と 『あさひ しんぶん』は にほんに おける みんぞく きょういく だんあつ*4の きょうはんしゃと いう べきです。
『さんけい しんぶん』などの うよくわ、しょうすうしゃに たいして、あからさまな はいがいしゅぎで むかいます。うよくわ しょうすうしゃに たいし、「こくえき」を そこなう 「てき」と なざして こうげき します。
いっぽうで、『あさひ しんぶん』に みられる ような、たすうしゃで ある ことに いなおり、たすうで ある ことを かさに きた 「リベラル」*5わ、しょうすうしゃに たいして、「かんようさ」を もって せっします。「わたしわ あなたを みとめて あげますよ」と。ところが、この「リベラル」は そこで 「ただし……」と じょうけんを つけるのです。「あなたを そんちょう する つもりだし、そんちょう したい という きもちを もっても いるのです。ただし、これこれしかじかの じょうけんを のんで くれないか?」と。
ここにおいて、うよくと 「リベラル」わ、たがいが たがいを ひつようと する かんけいに あります。もし、うよく しか いなければ、しょうすうしゃに とって 「じょうほ」や 「だきょう」という せんたくしわ げんじつてきに そんざい しようが ありません。いかに うよく による はいじょと よくあつに ていこう するか(あるいわ、やりすごすか)、という こと だけが、しょうすうしゃに とっての かだいに なります。したがって、「リベラル」ぬきでわ、たすうしゃわ しょうすしゃの はげしい ていこうを うける かのうせいが たかく なります。
ところが、ここに 「リベラル」が いる ことで、じじょうが かわって きます。「リベラル」は うよくの あからさまな はいがいしゅぎを はいけいに して、しょうすうしゃに 「じょうほ」と「だきょう」を せまる ことが できる からです。「リベラル」わ、しょうすうしゃに たいし「うよくどもの せいで あなたたち ひどいめに あってるね」と どうじょうを しめし、「でも、わたしわ あなたたちの みかたですよ」と ちかづく ことが できます。そして、「あなたに とって きちょうな みかた である わたしの だす じょうけんを のんで くれないか」と どうかつしに かかる わけです。
こうして、うよくと 「リベラル」の やくわり ぶんたんの けっか、しょうすうしゃわ たすうしゃ えの 「だきょう」を せんたく するのか、それとも その ぎゃくの せんたくを するのか、という ぶんれつ あつりょくを うける ことに なります。その 「ぶんれつ」とわ、たとえば 「しんにちは(親日派)」と「はんにちは(反日派)」との たいりつ として あらわれる ことも ある 「ぶんれつ」でも あり、また ひとりの ひとの なかでの かっとう として あらわれる 「ぶんれつ」でも あるでしょう。
これわ きゃっかんてきに みて チーム・プレイと いうべきです。しかし、「うよく」と「リベラル」を ぶんり する ような にんしきの もとでわ、これが いったいと なった れんぞくした ぼうりょくで ある という ことが みえません。
うよくにわ うよくの じこぎまんの りくつが あるのでしょう。「あえて どろを かぶり、にくまれやくを かってでるのが オレたち おとこの びがくだ。さよく*6と ちがって きれいごとわ いわないぜ」とか、そういうのでしょうかね? くだらない。
たほう、「リベラル」にわ 「リベラル」の じこぎまんの りくつが あるのでしょう。「わたしたちわ たしゃを うけいれる かんようさが あるのです。うよくと ちがって はいがいしゅぎを となえたり しない」と。
じこぎまんの りくつに おいても、りょうしゃわ 「たがいが たがいを ひつようと する かんけい」に あると いえそうです。
うよくを ひはん するのと どうじに、あるしゅの 「リベラル」、『あさひ しんぶん』に みられるような ふるまいかた*7を ひはん して いく ひつようが あると おもいます。
*1:キム・イルソンわ にほんによる しょくみんち しはいと たたかった、どくりつ うんどうの リーダーの ひとりと されて います。ちょうせんじんに たいし、その キム・イルソンの しょうぞうがを おろせと にほんの ナショナル・メディアが ようきゅうする なんて、たしょうなりとも しゅうちしんが あったら はずかしくて できない ことだと おもいます(イギリスの しんぶんが インドこくみんに むかって 「ガンジーの しょうぞうがを おろせ」と いってる ような ものです)。しかも、『あさひ』わ かつて その しょくみんち しはいに きょうりょく した せきにんを とわれる べき しんぶんでしょ?
*2:しゃせつの ぶんしょうでわ 「自国(じこく)の 負(ふ)の 部分(ぶぶん)も 教(おし)えるべきだ」という かきかたを して おります。しゃせつの ひっしゃわ、ここでの「じこく」(じぶんの くに)とわ 「きょうわこく」の ことだと きめつけて いるのでしょう。
しかし、ちょうせん がっこうに かかわる ざいにち ちょうせんじん にとって、「あなたに とって 『じぶんの くに』とわ どこですか?」という しつもんわ、そんなに かんたんに こたえを だせる ものなのでしょうか?
「きょうわこく」と こたえる ひとも いるでしょうし、「かんこく」と こたえる ひとも いるかも しれません。また、「じぶんの くにわ その いずれでもない、まだ そんざい して いない くにである」と かんがえる ひとも いるかもしれない。あるいわ、「こっか などに アイデンティティを もって いないし、もつ つもりも ない」と いう ひとも いるかも しれません。「にほんが 『じぶんの くに』だ」あるいわ「にほんも 『じぶんの くに』の ひとつ」という こたえも ありえますが、すくなくとも、この しゃせつを かいた きしゃわ、その かのせいを そうぞうすら して いない ことが わかります。
しゃせつを かいた ひとわ、「じこく(自国)」など という ことばを、とう までも ない あきらかな もの として へいきで つかえる みずからの むしんけいさが、じぶん じしんの どういう しゃかいてきな いちに ゆらい する ものなのか、よくよく はんせい して みたら よいのでわ ないかと おもいます。
*3:「じしゅてき かいぜん(自主的改善)」などと 『あさひ』わ いって いますが、なにを もって 「かいぜん」と ひょうか するのかわ、オレたち にほんじんさま しだいだ、という わけです。
*4:さきに かいた ように にほんじんに 「なる」ための みんぞく きょういく だけわ、にほんじん いがいの じゅうみんからも あつめた ぜいきんを つかって おしすすめ、おしつけて いる わけですが。
*5:ここでの 「リベラル」わ 「さよく」と おきかえて よんで もらっても よいと おもいます。
*6:わたしが この ぶんしょうで いってる 「リベラル」に あたります。
*7:cafe_more さんの ことばを かりると 「『りょうしんてき』である ことと『しはいしゃ』であり つづける ことを どうじに みたして くれそうな げんせつ」