衆議院議員選挙の投票をボイコットします

 きょうの衆議院議員選挙、今回もわたしは投票しないという選択をすることにしました。
いうまでもないことですが、「投票をする」という行為は、すべての住民にひらかれた普通選挙がいまだ制度化されておらず、したがって民主主義にもとづいた正統な議会をもたない日本国においては、不当な特権の行使にほかなりません。
 そして、今回のわたしの選択、「投票しない」「棄権する」という選択をできるということ自体もまた、かぎられた「有権者」のみにあたえられた不当な特権にもとづくものだというべきでしょう。
 でも、あるいは、だからこそ、いっぽうでこうも思います。「かぎられた有権者はその自分にあたえられた特権を、より正義にかなう方向につかうべきではないだろうか? あえて投票しないことを選択するのは、そうした機会をみすみす捨て去る行為ではないのか?」と。ここは、わたしも悩むところです。
 いずれにしろ、選択肢のかぎられたなかで「よりマシな選択」をしたいものです。投票するならば、よりマシな候補者、よりマシな政党に票をいれることになるでしょう。しかし、わたしは、今回の衆議院選挙でも、投票において「よりマシな選択」などありえないと判断せざるをえませんでした。
 わたしが日々であうひとびとの多くは、日本に生活の拠点をもちながら、選挙権から排除されています。そうしたひとびとのなかには、日本政府の強制収容所に監禁され、また、監禁を解かれても社会保障や医療から排除され、移動の自由をいちじるしく制限されているひともいます。
 また、日本政府は「制裁」と称して他国への戦争政策をこの10年間にわたってつづけており、国会はこれを全会一致で(自民党などの極右政党だけでなく共産党社民党といったインチキ左翼政党もふくめて)賛成しているありさまです。
 非有権者への人権侵害や挙国一致での戦争政策が、国会の議決した法にのっとって政府によってすすめられるなか、これらを批判的に問うようなひとりの候補者、ひとつの政党すら(すくなくともわたしの選挙区には)みあたりません。
 たしかに、現状でも、どこに関心をむけるかによって、投票をつうじて「よりマシな選択」をおこなうということも、可能なこともあるでしょう。しかし、わたしの関心にとっては、投票における「よりマシな選択」はありえないと結論するほかなかった、ということです。
 したがって、わたしにとって「よりマシな選択」は、この制限選挙制度の外にしかありません。それは、この不公正な選挙の結果成立する国会および内閣を「民主的な議会・政府」としては承認しない、という意思表示をおこなうことです。また、その成立に民主的なプロセスを欠いた国会で「議決」された法律についても、わたしたちはその正当性を留保する権利があるのだということを表明しておきましょう。
 わたしはこれまで政治的なとりくみを(可能な範囲で最大限)「合法的に」おこなってきたつもりですし、まあ、今後もしばらくはそうするつもりではあります。しかし、それはあくまでもわたし自身の自由な選択・恣意によってそうしているのであって、そうしなければならない理由もないのだということは、ここで言っておきます。
 わたしは、最初にのべたとおり、きょうの選挙の投票をボイコットします。
 不公正な投票特権をもっている他のひと(有権者)については、投票すべきかすべきでないか、わたしがいうようなことではありません。それぞれにそれぞれの選択があってしかるべきだとおもいます。
 ただし、この選挙のあとに成立したことにされる議会および政府が、ほんとうに普通選挙にもとづく民主主義的な正当性をもつといえるのか、という問題意識を、すこしでも多くのひとびとと共有できればいいなと願ってはいます。「普通選挙」の実施をもとめて路上を占拠してきた香港市民のたたかいから学ぶべきことは、それだと思っています。