賽の河原に石を積む

 あけましておめでたくございます。
 新年早々、というか年末にできなかった(飲んだくれていたのでね)部屋の大掃除をば、いまやっている最中なのだけど、一向に片づく気配がない。手を動かせば動かすほど部屋中ますますとっちらかり、布団を敷くスペースどころか足の踏み場が消えていく。エントロピーが増大してゆくがごとしである。
 こりゃ変だ。というのも、人間の労働というのは、秩序を創造していく営みなのであり、したがってエントロピー的に言えば(ってよく意味わからんで言ってるんだけど)これ減少してゆくはずなのに、私が手を動かし物を移動させる労働に精を出せば出すほど、まるで大地震でもやって来たかのように、あるいは家のなかが暴風にさらされたかのように、乱雑さが増してゆくからである。
 なぜ片づけようという私の意思を裏切って、しかもせっせと勤勉に働いているというのに、わが部屋は混沌へと向かっていくのであろうか。という理由は、30分ほど前に気がついた。物の量に比して、これらを収容すべきスペースがあまりに狭いからである。
 まず手始めに、部屋の隅に積み上げていた紙やら本やらCDやらを崩す。これを分類し、本なら本棚のしかるべき場所に収めようとする。おっと、本棚には先客がいた。すでに棚に収まっていた本を床に降ろさないと、あらたに目的の本を置くことはできない。床にあった本を1冊収めると、棚にあった本が1冊あぶれて床に転がる。こうして床にあぶれたやつを別の本棚のしかるべきところに移そうとすると、そこからまた別の1冊があぶれる。
 1冊入れたら1冊こぼれる、ということならプラマイ・ゼロであって、まだよいのだが、こうした作業を3時間ほど繰り返して気づいたのは、掃除を始めた時点ですでに本棚は乗車率250%ぐらいの超満員で、2人に降りてもらわないと1人が乗れないという状況だったという事実である。まともに整理しようなどと考えたら、ますます散らかってゆくという道理であった。
 そういうわけで、今晩、布団を敷くためのスペースをつくるためには、棚に秩序よく並べようなどという不遜な考えはいっさい捨てて、何も考えずにダンボールの中に片っ端から詰め込んでゆかなければならん。それでも収まらないぶんは部屋の隅にでも積んでおくほかないだろう。ということは、片づけを始める前の状態にもう一回「戻す」ということであるからして、私はなんのために部屋の片づけを始めたのかもうわからない。
 余計なことには「着手しない」ということが、なにをおいても大事であるなあ。この新年早々ありがたくも得られた教訓をかみしめて、どうせろくなことのなかろう無駄に長い1年を過ごして参りたい所存であります。