あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動(転載)


 ヘイトスピーチに反対する会の ブログより、よびかけの ぶんしょうを てんさい(転載)します。
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-21.html


 また、この エントリの さいごに、この よびかけぶんに かんれんして、わたしの かんがえを すこし のべました。

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m9 あれがヘイトクライムだ! m9
レ イ シ ス ト を 通 す な !
1.24緊急行動


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集  合:1月24日(日)午前11時〜 新宿駅南口出口
(集合場所は変更する可能性がありますので、当日まで「ヘイトスピーチに反対する会」のHPを注視してください)


行動予定:レイシズムに反対する街頭宣伝・フリースピーチを行います。
レイシスト在特会」の「ヘイトデモ」に対して言論・表現による抗議を呼びかけます)


呼びかけ:ヘイトスピーチに反対する会
http://livingtogether.blog91.fc2.com/


主  催:「レイシストを通すな!1.24緊急行動」実行委員会


連絡先:livingtogether09@gmail.com


*意見の相違を暴力で解決し、それを正当化してきたグループの参加を認めません。

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永住者に選挙権を認める法改正が政治的な日程に上っている。そもそも選挙権とは、それぞれが平等な政治的主体のひとりとして投票をつうじて意思表示する権利であり、上からお恵みのように与えられる特権として扱うべきではない。それは、同じ社会に暮らす人々が互いに承認しあうべき権利である。


だが1月24日、「在特会在日特権を許さない市民の会)」は新宿区・四谷で臨時大会を開き、新宿駅に向かって「外国人参政権反対」をさけぶ「行進」をするのだと言う。「参政権」要求があたかも「特権」の要求であり、そのような要求をするならこの社会から出て行けと言うのだ。彼らは、日本社会に在住する外国人、とりわけ韓国・朝鮮、中国人への憎悪を顕わにし、この社会に存在する民族的少数者への嫌悪を煽動してきた。埼玉県に住む外国人一家の追放を呼号し、家族の子どもが通う学校を標的にした排外主義的扇動、京都ウトロ地区への脅迫と朝鮮学校への襲撃は記憶に新しい。今回の「行進」もその一環にある。


いったい彼らはどこでどのように問題をはき違えてしまったのか。この問いに答えるために多くの人々が苦心している。


だがとりあえず今はその作業を置いておく。ただここに生きる私たちは、この社会の保守主義が、生まれによって人に身分を与え、たがいを軽蔑させ憎悪させるものでしかなかったことを注視しよう。特定の少数者を二級市民として扱い、まして公民権を奪う社会では、多数派の享受する権利すら、常に与奪可能な「特権」としかならない。そのような社会を問うことすらできず、性や身体や民族を指標に憎悪を煽動することに腐心する「在特会」ら「行動する保守」には一片の未来もない。


私たちは民族的憎悪と性差別をまき散らす行為に怒りを覚えるすべての人々に呼びかける。自らの属性に屈辱を覚えさせられることのない社会を求めるすべての人々に呼びかける。彼らの「行進」に抗議しよう。街頭に立ち、抗議の意思を示そう。


この呼びかけに賛同し街頭宣伝と「ヘイトデモ」への抗議行動に協力していただける方々の参加を求めます。


 いかで のべるのは、うえの よびかけぶん(呼びかけ文)に ついての わたしの こじんてきな かんがえです。


 1/24に よていされて いる ざいとくかい(在日特権を許さない市民の会)の デモは、「がいこくじん さんせいけん はんたい」を テーマに した ものの ようです。
 いっぽう、かれらの デモは、これまで そうだったように、まちなかで 「がいこくじん」、とりわけ 「ちょうせんじん」や 「ちゅうごくじん」への さべつてきな ことばを さけび、その はいせき(排斥)を となえる ものに なると よそうされます。
 さて、うえの よびかけの ぶんしょうは、そうした せまい いみでの 「はいがいしゅぎ」「さべつ」だけを もんだいに する ものでは ありません。ざいとくかいが 「がいこくじん さんせいけん はんたい」を となえて いる ことへの ひはんも、あわせて もりこんで おります。
 この ことに ついては、つぎの ような いわかんを おぼえる ひとも いるかも しれません。すなわち、「ざいとくかいの はいがいしゅぎ・さべつだけを ひはんすれば じゅうぶんじゃないか? ざいとくかいの ぼうりょくてきな ふるまいに いかりや ききかん(危機感)を もつ ひとの なかにも、がいこくじん さんせいけんに はんたいの いけんを もって いる ひとも おおく いるはず。あえて いけんの わかれる がいこくじん さんせいけんの もんだいに ふれる ひつようは ないのでは ないか?」と。
 しかし、わたしは、ざいとくかいを ひはんする ときに、かれらの となえる 「がいこくじん さんせいけん はんたい」への はんたいの いしひょうめいを する ことは、さけて とおれないと おもって います。というのも、つぎの ふたつは、けっして りょうりつできる ことでは ないからです。

  1. ざいとくかいの さべつてきな げんどう(言動)に はんたいする こと
  2. がいこくじんに さんせいけんを 「あたえる」ことに はんたいの いけんを もつ こと


 1を おこうないつつ、どうじに 2の いけんを もつとしたら、それは しりめつれつです。そういった ひとは、ざいとくかいの 「いきすぎた がいこくじん さべつ」には はんたいした ことに なるかも しれませんが、にほん こっか および にほん こくみんによる がいこくじん さべつ そのものは こうてい(肯定)する ことに なります。


 さきの よびかけぶんの さいしょの だんらくが じゅうようだと おもうので、もう いちど いんようします。

永住者に選挙権を認める法改正が政治的な日程に上っている。そもそも選挙権とは、それぞれが平等な政治的主体のひとりとして投票をつうじて意思表示する権利であり、上からお恵みのように与えられる特権として扱うべきではない。それは、同じ社会に暮らす人々が互いに承認しあうべき権利である。


 わたしは この ぶんしょうに ふかく どうい(同意)します。
 さんせいけんを ふくむ けんりとは、だれかによって いっぽうてきに 「あたえられる」ものでは ない。おなじ しゃかいに くらす ひとびとが びょうどうな たちばで おたがいに みとめあうものだと かんがえます。
 その てんで、「がいこくじん さんせいけんへの はんたい」を しゅちょうする ひとは その しゅっぱつてんにおいて おもいあがりが あります。
「がいこくじんに さんせいけんを あたえるべきか、あたえないべきか?」
 こうした もんだいの たてかた じたいが、このうえなく ごうまんです。オマエに なんの しかくが あって たにんに けんりを 「あたえる」とか 「あたえない」とか いっぽうてきに いえるんだよ? たまたま にほん こくせきを もってる というだけで どうして たかみから えらそうな ものいいが できるんだよ?
 しかも、その けんりを 「あたえる」か どうか という そうだん*1を、その けんりから 《はいじょ》された ひとを 《はいじょ》した くうかん(空間)で おこなって いる わけです。ここには ふたつの いみでの 《はいじょ》が あります。さんせいけんという けんり そのものからの 《はいじょ》と、その けんりを たがいに みとめあうための くうかん・ばしょからの 《はいじょ》。

  • けんりを 「あたえる」べきだとか なんとか という ごたくを いっぽうてきに ならべる とっけんが にほんこくみんには 「あたえられて いる」 いる という おもいあがり。これを まずは すてる こと。
  • そして、おなじ しゃかいを つくって いく もの どうしとして、びょうどうな たちばで たがいの けんりと そんげんを みとめあう こと。

 この ほかに さべつに はんたい するための しゅっぱつてんは ありえないと かんがえます。

*1:むしろ 「だんごう(談合)」と よんだ ほうが てきせつかも しれません。