公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ(追記あり)

 学生だったころ、しりあいから きいた はなし。
 そのひとは 哲学科の 学生で、高校の倫理の教員免許をとるために、教育実習に いったのでした。たしか、カントかなにかを つかって、「自由とは なにか?」というようなテーマで、授業をやったんだそうです。
 かのじょが いうには、実習さきの教師に「自由」についての授業をやりたいという計画を はなしたら、あらかじめ くぎをさされた、と。そのせいで、どうやって授業をくみたてたら よいものか、こまっちゃったよ、ということでした。
 その実習さきの教師の いいぶんとは こうです。「とくに高校生たちのなかには、自由の いみを はきちがえるものが おおい。他人に めいわくを かけるのも自由だ、という あやまったかんがえを もっているものも すくなくない。だから、授業は きほんてきに あなたの やりたいように やっていいけれども、『自由には責任がともなうこと』また『公共の利益を そこなうような自由は みとめられないこと』は、かならず生徒たちに いってきかせるように してください。」
 その わたしの しりあいは、「公共の利益なんて、そんな はなし したくないよー。『あなたの やりたいように やっていい』と いっておきながら、おかしな条件をつけてくるなんて、そんなの自由じゃないよ」と、わらいながら はなしてくれました。
 さて、さきの教師の いいぶん。いかにも せんこーが いいそうな はなしで、むかつきますね。たしかに、「自由には責任がともなう」というのは、あるいみでは そのとおりでしょう*1。しかし、「公共の利益を そこなうような自由は みとめられない」という かんがえにたいしては、わたしは ぜんりょくで 反対したいと おもいます。あるいは、「自由とは、他人に めいわくをかけない かぎりで ゆるされるものなのだ」という意見を、わたしは ぜったいに みとめません。
 他人が「めいわく」と感じようが 感じまいが、他人に危害をくわえることになろうが なるまいが、わたしの行動は、わたしにとって可能な範囲で、制約されることなく自由です。たとえば、わたしには ジャスコで まんびきする自由があります。吉野屋で くいにげする自由も あります*2。さらに、ひとをころす自由が あります。
 こんなことを おおっぴらに いうヤツは、こわいでしょうか。やばいでしょうか。あぶない にんげんでしょうか。でも、「ひとをころす自由が ある」とは、もっと くわしく いえば、「ひとをころすか ころさないかは、わたしの自由である」ということです。つまり、「わたしには、ひとをころす自由と どうじに、ひとをころさない自由が ある」ということ。
 いっぽう、ほんとうに こわいのは、反対に「ひとをころす自由」を否認するような かんがえかたです。かれらは いうでしょう。「われわれは ひとをころす自由を みとめられていない」と。しかし、あなたの「ひとをころす自由」を みとめないのは、《だれ》(あるいは《なに》)ですか。「法律」でしょうか。それとも、「ケーサツ」でしょうか。
 かりに、「ひとをころすのは、法律で ゆるされていないから、自由ではない」と かんがえる ひとが いたと しましょう。そのひとは、法律が「ひとを ころせ」と 命じたら、ひとを ころすのでしょうか。
 わたしは、なにも 極端な はなしを しているつもりは ありません。兵隊や死刑執行人にとって、法律によって ひとごろしを 命じられる可能性は、きわめて現実的なものです。鳩山邦夫(はとやま・くにお)というひとは、法務大臣という たちばと 法律を根拠に ひとを ころしまくって います。
 はとやまさんは、おそらく こう かんがえているでしょう。「法務大臣としての わたしには、死刑を執行しない自由は、みとめられていないのだ」と。すくなくとも、このひとが すきこのんで死刑執行を命ずる書類にサインしているのではないことは、かれの さまざまな 発言から みてとれます。かれは「これが公務だから、しかたがないのだ」と、かんがえているのでしょう。だから、ほんとうに おそろしいのは、「ひとをころさない自由(=ひとをころす自由)が みとめられていないのだ」と、かんがえてしまうことです。「公務だから、しかたがない」あるいは「わたしは 公務を執行しているに すぎないのだから、ゆるされる」という かんがえこそが、もんだいです。
 さて、オマワリもまた、「公務執行妨害」をたてに デモ隊に 暴力をふるっています。


死ねばいいのに - 無産大衆


 ここで対峙しているのは、「公務」をたてに みずからの自由な判断を否認するオマワリと、みずからの自由な判断で行動するデモ隊です。オマワリは、デモをつぶす という、うえから あたえられた「公務」を「執行」しているのでしょう。もっとも、かれらは「デモ隊による近隣住民への めいわく行為を防止するのが、われわれの公務なのだ」ぐらいに かんがえているのかもしれませんけど。
 いずれにせよ、かれらは うえからの命令でうごき、そのじぶんの そとがわから やってくる命令が じぶんの行為を正当化し 権威づけていると かんがえているはずです。「公務だから やっているのだ」と。で、かれらは いっぽうで、デモに参加している ひとびとを、自由な主体とは みなしていません。まるで、デモの参加者は じぶんの行為が近隣住民への めいわくに あたるかどうか、判断する自由をもちあわせていないかのように。オマワリは そんなふうに みなしているからこそ、「公務」や「迷惑」を口実に、デモ隊に暴力的に介入することが できるのでしょう。「じぶんたちこそが、住民を代表し、公共性を になっているのだ」という おもいこみ。しかし、サミットという談合に異議をとなえる ひとびとが、公共性への関心を 欠いているなどということが あるでしょうか。
 オマワリたちは みずからの自由を否認しているのみならず、他人の自由をも否認しているのです。おそろしい道徳的退廃というべきです。この件でおおくみられる、オマワリの肩をもつ、あるいは「中立」のスタンスをとるひとたちも おなじです。
 オマワリの「公務」の「執行」を「妨害」することは、道徳的なふるまいに ほかなりません。はんたいに、オマワリのいう「公務」なるものは、うえからの命令の機械的な「執行」にすぎない といういみで まったく自由を欠いているのであって、そこには なんら道徳的な根拠をみいだすことは できないと おもいます。道徳を機械の内部構造にもとめるのはナンセンスであり、それは自由な意思においてしか 実現されえないはずだからです。
 オマワリに自由を! 死刑執行人に自由を! はとやま法務大臣に自由を! そしてオマワリの肩をもつ おろかものに かぎりない自由を!


関連
2008-04-03 - 自由あるいは主体について- やねごんの日記
とっても ながーい文章ですけど。

*1:ただし、「その責任とは、だれ(あるいは なに)に たいする 責任なのか?」という ところが だいじでしょう。このてんについては、じっくり かんがえてみる余地がありそうですが、まだ わたしのほうで 論じる準備ができていません。

*2:マクドナルドは まえばらいなので、くいにげできません。ざんねんながら。

追記

 うえの文章にたいし、まったく予想もしていなかったほど おおくのひとに 反応していただいたことに とても感謝しています。コメント欄にかきこんでくれたかた、トラックバックをよせてくれたかた、はてなブックマークや スターのマークをつけてくれたかた、さいごまで よんでくれたかた、みなさんに感謝しています。肯定的なご意見は もちろんのこと、否定的な ご意見も、さらに すてゼリフも ふくめ、すべて ありがたく ちょうだいしました。
 ただ、せっかくですけど、このエントリに かんしては、わたしのほうから ちょくせつおへんじすることは、きほんてきには いたしません。まあ、おなじような 内容の文章は こんごも かいてゆくと おもいますけれど。
 いただいたコメントのなかには、エントリをかいた わたしの意図からすると、不本意な理解をされたものも たくさんありました(そんな むずかしい りくつを かいたつもりは なかったのですが……)。しかし、はんたいに、わたしの意図を よい いみで(というのは、あくまで「わたしにとって」ですけど)うらぎってくれる すばらしい コメントも 多数いただきました。いちいち「わたしの意図」を せつめいするよりも、はてなブックマークなどで、ほかの かたが のこして くださったコメントを よく よんで いただいたほうが、わたしが不十分ながら提起しようとした問題が多角的に とらえられるんじゃないか、と。そういうわけで、ぜひ はてなブックマークのコメントを ごらんになって ください。


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 それと もうひとつ。すでに よんだかたも おおいと おもわれますが、常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんの すばらしい文章にリンクしておきます。


テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」 - (元)登校拒否系


 お読みになれば ただちに推察がつくかもしれませんが、わたしが かいた文章は、この つねのさんの考察に おおくを負っています。もっとも、わたしの かいたものは、ずっと デキが わるいですけど。
 わたしの記事にたいし、ポジティブであれネガティブであれ、反応してくださったかたには、きっと かんじるところの おおきい文章だと おもいます。コメント欄も ふくめて、ぜひ一読をおすすめします。
 それにしても、「自由」について なにか いうのは、たいへんなことだな、と痛感しました。「自由」について かたるとき、それをかたる ひと自身の欲望、あるいは他者や社会へのスタンスが、そのひとの ことばに うつしだされてしまいます。