資本主義が語るのを聞いた

 喫茶店で聞いた話。
 まあ、盗み聞きした話ですわ。なんかこの日記、こういう話題前にもあったかもしれない。私は独り喫茶店で過ごすことが多いのです。枯れた生活を送っておりまする。


 隣の席に3人の男がすわっている。そのうち20代後半とおぼしき男性2人は互いに仲間、会社の同僚らしい。もう1人はやや緊張した面もちの学生らしき長髪の男性。
 もっぱら20代後半男性の片方(A氏としておく)が、正面の席の学生(B氏)に向かって間断なく演説をぶっている。もう1人のC氏は、学生B氏の脇にいて、相方A氏の話に相づちをうつ役目のようだ。
 話の内容から察するに、B氏は就職活動中で、志望先の企業の社員であるA氏から、会社や仕事内容についての説明を受けているところのようである。
「流れ星が落ちる前に3回願いごと唱えるとかなうっていう話聞いたことない? あるでしょ。なんであの話広がったんだと思う?」
 A氏のこんな話が聞こえてきて(だって声でかいんだもん)、思わず聞き耳をたててしまったのである。
「俺が思うにね、あの話ウソじゃないんだよ。3回唱えたら本当にかなう。絶対。強くイメージしたらできないことなんて何ひとつない。成功してるやつらはみんな知ってる。だから、あの話は広がったんだと思う」
 まるで『カモメのジョナサン』みたいなクソ・ロマンチックな話だが、A氏の様子はラリッたヒッピーとはほど遠い。話し方、しぐさ、表情、いずれも活力にあふれ、いかにもやり手の営業マンといった風である。B氏は上気した顔で熱心に聞き入っていたが、私は彼らと無関係であるにもかかわらず、疾駆するA氏の捲き上げる砂をくらっているような気持ちになった。無関係なのにね。おい、こっちに砂がとんできてるぞ。
「流れ星って一瞬でしょ。『ピッ』と。普通の人間はあんな短い間に願いごと言えると思っていない。普通の人間は──そこら辺にいるやつらね──知らないんだよ。でも、俺たちはそんなレベルで生きていない。そんなやつ相手にしない。『ピッ』の一瞬で三回言えるんだって。強い目的意識さえあれば」
 A氏はさかんにB氏に目的意識の重要さを説く。20万の月収で満足するやつがいる一方で、100万もらっても満足しない者もいる。現状で満足したらその先はない、目的を創ることが大事だ、と。
「Bさんは何が欲しい? たとえば、目標は車でもいいんだよ。10万で手に入る中古もあれば、何10億もするのもある*1
「やっぱりベンツとか欲しいです」
「いいねえ、ベンツ。じゃあ、次に会うときまでの宿題を出そう。どんなベンツにする? そのイメージを明確にするんだよ。ディーラーに説明してすぐ注文できるくらいに。今のうちに文章にしてみな」
 A氏のアジテーションはこういうものだった。
 途方もない目標をかかげよ。次にそのイメージをあたうかぎり仔細に明確化せよ。そうすることによって、初めて達成する条件が整う。そして、それは強く思えば絶対にかなう。


 A氏の話でひとつ興味深く思ったのは、彼がB氏に示そうとしているように見えた「目標」(鼻の前にぶら下げるニンジン)のイメージが、「消費」に関するものだったことだ。彼はB氏から「ベンツ」という「目標」を引き出したわけだが、自身の話として、次の給料で何を買うのか絶えずイメージしているのだとも語った。何を買うかという目標を立て、それに向けて仕事をする。そうして、自分はこれまでそれらを買ってきたのだ、と。
 もちろん、A氏は、いまだ「社会人」でないB氏に話す方便として、学生でも熟知しているだろう「消費」という場面を例に出しただけなのかもしれない。実際のところは分からない。
 ただ、A氏の話を字義どおり受けとるならば、彼が彼の属する企業の論理、個別の資本の論理・精神を代弁して語っているではなく、資本主義そのものが語っているように、私には聞こえた。
 彼は仕事自体の「やりがい」についてのお題目を唱えなかった。「やりがい」などという修辞は底が知れている。それは、あくまでも企業に対する奉仕を当人にとって「自発的」なものへと変換する装置だ。「君はどんな仕事をしたいの?」という問いは、「君はウチの会社のために何ができるのか? どう貢献できるのか?」という問いかけでしかない。
 彼は「何ができるのか?」とも問わない。「どんな仕事をしたいのか?」とも問わない。「何を買いたいか?」と問うのである。
 また、彼が未来の部下になるかもしれないB氏の面前につるすニンジンは、単なる「カネ」ではない。「カネ」の先にある「消費」のあり方までを彼は訊く。
 これは想像だけれども、もしB氏が「給料はとりあえず貯蓄します」と答えたなら、A氏はさらに問いを向けたのではないか。「貯めたカネを何に使いたいのか?」と。
 そんな勢いでA氏は演説をしていた。実際、A氏自身が月々の給料の使い途をイメージすることで仕事の目的を大きくふくらませてきたという話を、とうとうと語っていた。


 これはどういうことだろう。彼は、単にB氏が会社に貢献できる能力と性格をもっているかどうかだけを審査しているようには見えない。会社のコマとしての可能性のほかに、一企業の枠をこえた資本主義システムの構成要素たりうる適性を見ているのではないか。
 企業から見るならば、従業員は「労働者」にすぎないはずだ。「労働者」は労働を離れたとき、「消費者」となって改めて資本主義システムに参与する。つまり、みずからが商品(労働力)であることを一時的にやめ、商品の買い手として改めて市場と関係を結ぶ。この場合、人は同時に労働者でもあり消費者でもあるということはできない。人は雇用主である企業に対して「労働者」として現われ、顧客として「消費者」として現われるが、一度に同じ人格が「労働者」かつ「消費者」として現われるのはおかしいではないか。
 しかし、今私の目の前にある光景は、リクルーターが、自社の入社希望者を「労働力」としてみながら、その裏側にある「消費者」の面をも透視するような視線を投げかけているというものだ。おかしいではないか。おかしいのは私の頭か。


 うまく言えないのだが、なにか妙だ。
 「ベンツを買うために一所懸命に働く」、つまり、消費という目的に対し労働が手段として従属する、というのは了解できる。
 しかし、A氏の語りにおいてみられるのは、労働の動機を高めることがまず目的として立ち現れており、そのための手段として消費の欲望を操作し動員しようという意思である。
 「欲しいモノをイメージせよ」と彼は鼓舞する。欲しいモノが先にあるのではない。「イメージせよ」という命令によって、「欲しいモノ」のイメージが創り出される。みずからをより激しい労働へと追い込むためにである。
 あらかじめ存在する必要を充足することではなく、欲望・需要のたえまない創出によってまわり続けるシステムを資本主義とするなら、彼自身が資本主義のシステムそのものではないか。彼自身がその人格の内部に市場を組み込んでおり、みずからの手でその内なる需要・欲望を開発することによって、生産力・労働の強度を高めようとしている。彼にとって、ほかならぬ自身の欲望が手段になっているようにみえる。彼の「欲しいモノ」とは、彼にとって手に入れるべき目的ではなく、走りつづけるために自身によって穿たれたブラック・ホールのようなものではないのか。


 以上は、私のような「負け組」には無縁の世界の話だと思いたいんだけど、必ずしも他人事に思えないのが引っかかるところ。

*1:あるの?