こどもの ための あんしん・あんぜんな まちづくり・くにづくり


 なにか 「せけん」では きょうは 「こどもの ひ」という ことに なって いるらしいので、じぶんが こどもだった ときの できごとを おもいだして かいて みる。「せけん」(≠「しゃかい」)なんぞ しった こっちゃ ないし、そんな ものは くそでも くらえば いいと おもっているし、だいたい 「こども/おとな」なんて くくりかたは くだらないのだけれども。




 とうじは じてんしゃに のるのが すきだった。
 とおくへ ゆけるから。それも おとなと いっしょにでは なく、じゆうに みしらぬ ばしょへと ゆけるから。
 はじめは おなじ としごろの ゆうじんと がっこうの がっく(学区)の そとへ でかけるのも、ちょっとした ぼうけん きぶんで、おそるおそるだったように おもう。たしか、「こどもだけで がっくの そとに でては いけない」という がっこうの きまりが あった。
 じてんしゃの おかげで だんだんと こうどう はんいが ひろがって いった ことは、わたしに とって――ちょっと おおげさな いいかたを すれば――「すくい」だった。ゆうじんたちと いっしょに、あるいは ひとりで、しらない とちへ でかけて いく。
 ひとりで じてんしゃを こぐときには、「もし、じぶんが あの いえではなく、ここで うまれ、くらして いるとしたら……」という ような くうそうを したりも した。




 たぶん、8さいか 9さいか、その あたりの としの ころの ことだったと おもう。とおでを していて まいごに なった ことが あった。
 その ひは、ふだん いかない とおくの こうえんで、あそんで いたのだった。
 がっく(学区)の はてか あるいは その さかいを こえた ところに ある こうえんに、いつも つるんでた ともだちと でかけたのだけれど、そこには はじめて みる かおも ちらほら あった。そういう しょたいめんの ひとたちが、ともだちの しりあいか なにか だったのか、それとも そういう えんは なかったのか、それは おぼえて いない。けれど、なぜか てきとうに まざって いっしょに あそんで いた。
 ぐたいてきに なにを して あそんで いたのか、かれらと どんな ことばを かわしたのか、いまと なっては まったく おもいだす ことは できない。でも、はじめて かおを あわせる ひとと いっしょに なにか する ことの、ちょっぴり ふあんで ぎこちない かんじは、いまでも おぼえて いる。
 というか、20ねん いじょう たった いまでも、はじめて ひとと あう ときは、いつも おちつかない かんじを、あの ときと おなじ ように くりかえし いだく。ただ、その ふあんは なにか ちょっとした かいほうかん(解放感)と あわさった かんじょうでも ある。ふあんは じゆうと ともに おとずれる ものだ という きも する。
 その みしらぬ ひとと すごす、ふあんで、しかし ささやかに かいほう(解放)された じゆうな じかんは、とうじの わたしに とっては なおさら きちょうな ものだっただろうと おもう。




 うすぐらくなってから、わたしは みしらぬ ひとたちと すごした こうえんを あとにし、みしった かぞくの いる いえに、ひとりぼっちで かえろうと して いた。
 その こうえんの あたりの みちを わたしは よく しらなかった。けれど、だいたいの ほうこうは わかる つもりだったし、いつも して いるように あてを つけて てきとうに じてんしゃを はしらせて いれば、そのうち みしった とおりに でるだろう。わたしは そう たかを くくって いた。
 ところが、どこまで こいでも、みしった ばしょに でる ことは できなかった。すっかり ひは おちて しまった。よるに ひとりで であるく ことなど なかった わたしに とって、とおり すぎて ゆく ふうけいは べつせかいのようだった。そこから みおぼえの ある しるしを みつける ことは もう きたいできないだろう。




 はしを わたって いる とき、ジョギングを して いるらしき ひとが わたしの まえで たちどまり、じてんしゃを とめるよう あいずを した。さっきまで あそんでいた こうえんと わたしの すんでいた ところの あいだに かわなど なかったはずで、いま はしを わたって いる という ことは、まったく けんとう はずれの ほうこうに ずいぶん きて しまったんだと おもった。
 その ひとの かおも としかっこうも おもいだせないが、くびに あおい タオルを まいて いた ことは、いまでも おぼえて いる。わたしは ないていたと おもう。
 ひとまえで なくなんて、みっともない うえに、むいみで むだな こと。とうじの わたしは そう かんがえて いた ように おもう。じぶんの くるしみや いたみは、じぶんの せい。それを うったえた ところで、ひとは めいわくがるだろうし、へたを すれば あいての はげしい いかりを かうのが オチだ。
 だから、わたしは ひとまえで なく ことなど めったに なかった はずだし、ないたとしても、ひとが それで てを さしのべて くれる ことなど きたいして いなかったと おもう。
 その ときも、わたしは じぶんでは 《ひとりで》 ないてる つもりだったのでは ないだろうか。だから、はしの うえで その ひとが こえを かけて くれた とき、とまどって しまったのでは ないか。じぶんが そとに だした かんじょうに ひとが まきまれて しまう ことへの とまどい。
 わたしが ないて いても、その ひとは めいわくそうな そぶりを みせなかったけれど、わたしは みっともない すがたを みせて しまったと、はずかしい きもちで いっぱいだった。




 その ひとは、その ひとが かぞくと すむ いえへと わたしを つれて ゆき、ホット・ミルクを のませて くれた。
 メモようしと ボールペンを わたしの まえに おくと、「なまえと、あと わかったら おうちの でんわ ばんごうを かいて」と いった。
 その ひとは、わたしが かいた ばんごうに でんわを かけ、ついで タクシーを よんで、わたしの かぞくが すんでる いえへと わたしを おくって くれた。




 じぶんに とって だいじな ことは、たいてい ひとから すれば、おもしろくも なんとも ないのかも しれない。
 「こども」が みちに まよって、とおりがかった しんせつな ひとに たまたま いえへと おくって もらった。ただ たんに それだけの はなし。ものがたりとしての おもしろさも、みょうみを ひく めずらしさも、ない。
 ただ、ジョギングを していた あの ひとは どんな ことを おもい、また かんじながら、はしの うえで あかの たにんである わたしに こえを かけて きたのだろうか、という ことを そうぞうする。
 ずいぶん むかしの ことなので、きおく ちがいが あるかも しれないが、「あとで おれいを したいから」と なまえと れんらくさきを きいた わたしの おやに たいして、その ひとは 「おれいなんて いらないから」と なのらなかったようだ。なんにちか あとに、わたしの おやは タクシーがいしゃに でんわを して、その ときの うんてんしゅから じゅうしょを ききだし、わたしを つれて おれいに いったのだったと きおくして いる。
 たぶん あの ひとに とって、わたしに こえを かけたのは、ただ 「あたりまえ」で 「しぜん」な ことに すぎなかったんじゃ ないだろうか。なにか こまってそうな こどもが いたので、その こどもと じぶんじしんの あいだに 「かかわりあい」を つくってみた、あるいは 「まきこまれ」てみた、それだけの こと。だから、わざわざ かんしゃされる ような ことでも ない。
 じっさいの ところは どうか わからない。わからないけれども、あの ときの あの ひとの きもちを かってに そうぞうしながら おもうのは、はからずも あかの たにんと 「かかわりあい」に なったり、「まきこまれ」たり する ことを、しばしば 「めんどう」「わずらわしい」と かんじる じぶんの かんかくが、かならずしも 「あたりまえ」でも 「しぜん」でも ないんじゃないか という ことだ。




 ひとは かならずしも 「なかまだから」「かぞくだから」「ともだちだから」という りゆうで たにんに てを かしたり、ささえようと したり するわけでは ないと おもう。「なかまだから」「かぞくだから」「ともだちだから」といった かかわりあいが ないからこそ、そこで かかわりあいに なる という ことが、たしかに ある。きみょうな いいかたに なるけど、はからずも あかの たにんと かかわりあいに なり、そこに まきこまれる ことを えらぶと いったら よいだろうか。
 わたしは にんげんの しゃかいせい(社会性)というのは、そういう ことだと かんがえて いる*1




 わたしが ある しゅの あいこくしんや かぞくの イメージが しぬ ほど きらいなのは、それらが わたしの りかいする しゃかいせいと せいはんたいの もので、しゃかいせいを よくあつする ものにしか みえないからだ。
 「おなじ かぞくだから あんしんできる」「きみは なかまだから きょうりょくするよ」「おなじ こくみんどうし たすけあおう」
 わたしは、こうした 「みうちだから あんぜんで しんらいできる」という イメージが ファンタジーでしか ないことを みを もって おもいしらされる かんきょうに あった。それは とても こううん(幸運)な ことなのだろうと おもう。
 そして、「みうちだから あんぜんで しんらいできる」という イメージは、「みうち いがいは きけんだ」という イメージと つねに セットに なっている。この ふたつの イメージは おたがいに おぎない あう かんけいに ある。
 「じえいたいが こくみんの あんぜんを まもって いる」「おきなわの アメリカぐん きちは ひつようだ」といった ファンタジーが、モンスターとしての 「チュウゴク」や 「キタチョウセン」という ファンタジーによって リアリティを えて いる ように。
 「みうちは あんぜん」「みうち いがいは きけん」という ファンタジーを うけいれる ことは、あの とき はしの うえで こえを かけて きた みも しらぬ あの ひとや、わたしが これまで いきて きた なかで はからずも かかわりあいに なる ことを えらんで くれた ひとたちの こうどうに あった しゃかいせいを みなかった ことにし、わすれて しまう ことでは ないだろうか。



Kylie Minogue - I Don't Need Anyone



I don't need anyone
わたしには だれも ひつようじゃない
Except for someone that I don't know
わたしの しらない だれかを のぞいて
I don't need anyone
わたしには だれも ひつようじゃない
Except for someone I've not found
わたしの まだ であってない だれかを のぞいて

*1:この いみでの 「しゃかいせい」は、べつに にんげんだけが もって いる ものでは ないだろうから、ほんとは 「にんげんの しゃかいせい」などと いう いいかたは おかしいと おもうけど。