グリーングリーンの不条理


 グリーングリーン。これもまた、学童たちが替え歌にせずにはいられない傑作歌謡だと思う*1
 あまりにベタな対比と、あいまいさが功を奏している。

《1番》
ある日パパと二人で語り合ったさ
この世に生きる喜び
そして悲しみのことを
グリーングリーン青空には小鳥が歌い
グリーングリーン丘の上にはララ緑がゆれる


 小田和正氏の「あの日、あの時、あの場所で君に逢えなかったら〜、ぼくぅら〜は〜」のごとく、出来事の一回性・事件性を強調しながらも、しかし、時空間を特定する言葉と固有名詞は徹底的に排除される。こうした徹底的な排除によって、鑑賞者は、あたかも「ある日」や「あの場所」や「あの時」にみずからの固有の経験を任意に重ね合わせて感情移入することが可能になるかのようでありながら、しかしそんな劇的な出来事など実人生にそうあるものではないので、「ぼくぅら〜」は、実人生とフィクションのあいだに宙づりにされる。ここに滑稽味が生じると言ってよいだろう。
 ただ、小田氏の歌についてすこしく残念だったのは、これが、かのトレンデー・ドラマの主題歌として、同時代にはいくぶんシリアスに受け取られてしまったということだ。もっとも、かのトレンデー・ドラマもこんにち観ればきっとお笑い以外のなにものでもないのだが、同時代においては躍進するニッポン経済の勢いにも支えられ、何やら手の届きそうなアーバン・ライフとしてのリアリチーを有していたことは否めないのである。そがために、小田氏の「あの日、あの時、あの場所で」は、不幸なことに、聴き手のリアリチーをもったマジな欲望──それはトレンデー・ドラマによって根拠を与えられた──に支えられることで、滑稽なる宙づり感は喪失せしめられたのである。
 ところが、現在ニッポンは、幸いなことに、出口のみえない不況と先行きのみえない社会混乱に覆われている。今こそ、滑稽歌謡としての「あの日、あの時、あの場所で」に再評価の光があたえられてしかるべきときである。


 話をグリーングリーンに戻す。「ある日パパと二人で語り合ったさ」の歌い出しで、私たちは心の準備のいとまもなく、のっけからファンタジーの世界に投げこまれる。実体験から想像しうる「オヤジ」と歌の「パパ」との間の埋まりようのないギャップが、歌にファンタジー風味を醸し出させるのだ。「パパと二人で語り合」うのが尋常でないなら、その話題が「この世に生きる喜び、そして悲しみのことを」というのも浮世離れしている。「喜び」とか「悲しみ」とかの語が何を指示するのか、いっさい説明されずに、歌はすずしい顔をして走り去っていく。「小鳥が歌う」だと? 「ララ緑がゆれる」だと? なんじゃい、それは? 
 歌のファンタジーの世界に感情移入することがかなわず、実人生とフィクションのあいだに宙づりにされた私たちを、しかし歌は待ってくれない。疾走する歌の展開にせき立てられるように、私たちは、ヨーロッパだかどこだか知らないが、ファンタジーの世界では「そういうもんなんだろう」と無理やり納得しながら先に進まなければならないのである。以下、2番3番。

《2番》
そのときパパは言ったさ 僕を胸に抱き
つらく悲しいときにも ららら泣くんじゃないと
グリーングリーン青空にはそよ風吹いて
グリーングリーン丘の上にはララ緑がゆれる


《3番》
ある朝ぼくは目覚めて そしてしったさ
この世につらい悲しい事があるってことを
グリーングリーン青空にはくもがはしり
グリーングリーン丘の上にはララ緑がさわぐ


 ここで私たちは何ごとかが起ころうとしていることを知る。「パパ」は「僕」に何をほのめかそうとしているのだろうか。「ある朝」目覚めたときに知ったという「つらい悲しい事」ってなんなのさ。「ある朝」「目覚めて」いきなり何を知れるというのだろうか。この人をくった、因果関係の説明の放棄。歌は鑑賞者の感情移入を拒否したまま、私たちの宙づり状態には目もくれず、走りつづける。

《5番》
その朝パパは出かけた遠い旅路へ
二度と帰ってこないと ラララぼくにもわかった
グリーーングリーン青空には虹がかかり
グリーングリーン丘の上にはララ緑がはえ


 これは5番の歌詞。結局、2番3番ではられた伏線は、回収されじまい。パパは出征したのか? ならば、「無事で帰ってきてくれ」と願うのがふつうで、「二度と帰ってこない」とクールに悟っている「僕」ってなんなのだ?
 それとも家族をおいて愛人のもとに去ったということか? だとするならば、「僕」のやりきれなさは、「この世に生きる悲しみ」なんて漠然としたものではなく、オヤジ本人に直接むかうはずではないのか。それとも「オヤジ」と西洋の「パパ」はまったく別ものなのか。「文化のちがい」ってやつ?
 ぎょー、わからん。ぎょー、宙づりだ。


 そしてこの歌にあるのは、「喜び」を示すだけで、事実的あるいは因果論的な文脈をを欠いたそれ自体空虚なシンボルと、「悲しみ」を示す、やはり空虚なシンボルとの、空虚な対比だ。丘に映える緑だとか青空に吹くそよ風だとかの《喜びのシンボル》が、青空にかかった雲とか涙があふれて緑もぬれるだとかの《悲しみのシンボル》と、形式的に対比されている。けれども、この象徴どうしの対比の空虚さは、なにやら事情があってパパが去っていくという「僕」にとって固有なはずの、しかし説明されない出来事の中途半端なリアリティーと接ぎ木されることで、シュールな滑稽味をこの歌に与えている。
 こう言い換えてみるとよいだろうか。「喜び」だとか「悲しみ」だとかは、誰もが知っている感情であり、その言葉にふさわしい経験を想起することは原理的にはいくらでも可能だ。しかし、「喜び」「悲しみ」という語が指す意味はあまりに広すぎて、そのままでは、そこに具体的な出来事を重ね合わせるのは困難だ。そこで、通常ならば、リアリティーのある物語が、感情を具体化し定着させるための印画紙として準備される。
 ところが、グリーングリーンの場合、その感情を具体化する装置であるはずの物語が機能しない。グリーングリーンの物語は、あまりに具体性を欠いており、にもかかわらず「何ごとかが起こっている」感を過剰にあおるものになっている。このために、鑑賞者の半端に喚起せしめられた漠然たる「喜び」「悲しみ」の感情は行き場を失い、不可解な物語の上をさまようことになるのである。
 歌詞中の「グリーングリーン」という唐突なる英語の混入や、音数の都合で無理やりいれたと思わざるをえない「ラララ」が、この不条理感・宙づり感をますます強める働きをしている。


 って、口から出まかせ、尻から屁まかせ書いてみた。

*1:これ、スリー・コードで弾けます。[ギター講座]の更新が遅れているので、かわりに第1回の補足の練習曲として、コードをアップしておきます。第1回でとりあげた3つのメジャー・コード、AとDとEで弾けます。こちらのコード置き場にコードと全歌詞をのっけておきました。よろしかったら使ってください。