自動車とラモーンズ

 「自動車はたしかに便利である。しかし、その便利さと引き替えに、私たちは路傍に咲く小さな草花を愛でる心を忘れてしまったのではないか」。そんなことを言う人がいますね。っていうか、そんなこと言う人には会ったことはないのだけれど、むかし国語の教科書かなんかで読まされたような気がする。
 なるほどねえ、そうだねえ。なーんて、私は思わないのである。むしろ、「フン!」って鼻息鳴らさずにはおられぬのだよ。
 もしも自動車がなかったら、あるいは自動車の登場以前にものごとがどう見えていたのか、想像するのはひどく困難だ。でも、自動車がすでに日常生活と切り離せないこんにちであっても、「路傍に咲く小さな草花を愛でる」ような、そんなたぐいの感性は失われるどころか、ごくごくありふれている。そんな陳腐とさえ言ってよい感性は、自動車によって可能になったとまでは言わないにせよ、自動車によってひき立てられ強化されていると言うのは、あながちまちがってもいないだろう。路傍の草花に目もくれずに走り去ることができるからこそ、私たちは、そのつい見過ごされがちな小さなものを「見過ごされがちな小さなもの」として感じ、愛でるのではないだろうか。
 そんな感性を一笑に付して否定してしまえるものなのかどうか、わからない。しかし、ときとして、あんまりかっこいいものではないよなあ、とも思う。


 ラモーンズの音楽はよく「コロンブスの卵」と評される。誰でもできる簡単なことだけれども、誰もがやらぬことをやったのだという。「だから、たいしたことはない」と言うにせよ、「だから、すごい」と言うにせよ、どっちにしろ彼らの音楽を過小評価することになるのではないかと私は思う。
 ラモーンズがかっこいいのは、みんなが見落としていたものを拾い出したからなんかじゃない。彼らの演奏は、立ち止まってみることで、見過ごされている小さなものを拾い上げる、なんて感性とは無縁だ。なぜなら、ラモーンズは足をとめたりなんかしないから。だって彼らは、疾走しているじゃないか!
 かならずしも、演奏のテンポが早いということではない。むしろ、90年代に出てきたハード・コア(っていうの?)とくくられるバントたちと比べるならば、テンポはゆったりしているし、テンションも低い。しかし、ラモーンズの演奏には、そういったバンドたちが作り出すのとは、なにか異質なスピード感がある。平板とも言えるビートと、抑えぎみの独特のテンションが作り出す、静かな疾走感とでも言うべき印象がある。


 私がとくに好きなのは、I don't wanna go down to the basementという曲。

Hey daddy-o
I don't wanna go down to the basement
There's somethin' down there.
I don't wanna go
Hey, Romeo
There's somethin' down there
I don't wanna go down to the basement.


 歌詞はこれだけ。これのくり返し。「パパ、地下室*1に行きたくないよ。そこにはなんか居るんだ」。
 この詞が、キレのよいコード転換(「コード進行」というより「転換」だ)と独特のスピード感あるビートにのって歌われるのだ。素敵じゃないか。
 地下室の奥にひそむもの、それは真実? 本質? 陰翳? 欲動? 無意識? 原型? 陰謀?
 ある者はそれを掘り返してみせることでみずからの知見や感受性を誇り、ある者はそこに畏怖の対象を見いだして意味ありげな神託を告げる。でも、ラモーンズは地下室に潜り込んで行ったりはしない。だって、地下室に首つっこんで尻だけ出してる姿なんてかっこわるいじゃん。
 彼らは「地下室はなんかこわいよお、行きたくないよお」ということを、ちゃんと歌うのだ。地下室から真実とやらを拾い出してきたり、何か得体のしれないものに好き勝手な意味づけをしたり──ってなことをしてるのはオレじゃんかよ──する人には、ラモーンズのようには歌えないのだ。そういう人たちは、「地下室に行きたくない」こと《についての》歌は歌えるかもしれないけれど、「地下室に行きたくない」《と》歌うことはできない。


 先のリンク先にコードと歌詞をのっけたI Wanna Be Your Boyfriendもそう。世の中に恋愛《についての》歌はごまんとある──それがわるいってことじゃなくってよ──けれど、「ぼくはきみのボイーフレンドになりたいんだ」《と》歌うことのできた歌はそう多くはないんじゃないだろうか。
 もしきみが秘めた恋をしているなら──書いててかゆいが(笑)──、ためしに誰かともだちに打ち明けるつもりで「あの人のことが好きなんだ」《と》ひとりつぶやいてみてごらん。ひどく滑稽な感じがしないだろうか。きみのともだちが共感したり同情したりしてくれるのは恋愛一般もしくはそのともだち自身がかつて経験した恋愛《について》であって、だからきみの想いはなにか宙ぶらりんになって、悲しくて、でも滑稽な感じがする、なんてことはないだろうか。私はそんな瞬間に、ギャハハと笑うよ。
 ラモーンズのI Wanna Be Your Boyfriendが愉快なのは、それがけっして第三者の共感や同情をさそう恋愛一般《についての》歌ではないからだと思うのさ。共感を求めるのではなく、独り言をつぶやくように、「きみのボーイフレンドになりたいんだ」《と》歌う。受け皿を失った言葉は、誰もいない広いホールにこだまし、返ってくる。その反響が静かな可笑しさを誘う。
 歌を聴いて共感するというのは、自分の経験のなかからそれにあてはまるものを探し出してきて重ね合わせるということで、もちろんそれがダメってことはないけれど、それは、立ち止まり、過去をふりかえり、そこに沈み込むっていう心のありようだと思う。一方、ラモーンズは沈み込んだり潜り込んだりせずに、静かなユーモアをまとって駆け抜けていくのだ。
 「シンナーやりてえよ」と歌うときも、地下室とかでこそこそ暗い顔してシンナーをやるんじゃなくて、「シンナーやりてえよ」《と》歌って駆け抜けていく。それを聴く私は、歌われた内容《について》考えたり何かを思ったりするのではなく、そんな「内容」を追い越していく歌のスピードにのって疾走する。元気になるのさ、ラモーンズを聴くと。自分でもなに書いてるのかわからないけど。

*1:曲タイトルと歌詞カードには"basement"(地下室)と書いてあるのだけれど、実際には"base"(基地)と歌っている。英語はよくわからないけれど、「基地」とかけているのか。