いまさらながら、セカハナについて


 私は、まあある種の音楽を偏愛しているわけだけど、基本的には節操なきポップジャンキーであって、音楽を聴いて不快になることはめったにないという体質ではある。そのごくごくまれな例外が「世界に一つだけの花」であって、これになんとも言えない気分の悪さを感じていたのであった。もちろん歌詞がイヤなんだけど、その気持ちの悪さがどこからくるのか、ずっと言語化できずにいたのだけれど、なぜ私がこれを嫌悪してしまうのか、腑に落ちるような光景を最近目にした。


 ある駅の構内で出くわした光景である。そこはわりと広い駅で、その構内の一角を使って、ときどきイベントなどが行なわれていることもある。その日に開かれていたのは、障害者とそのケアをする人たちのグループが主催しているらしい、歌のもよおしだった。
 私が通り過ぎる間、そのグループは輪になって手拍子を打ちながら、「世界に一つだけの花」を合唱していた。その輪の中で、おそらくケアする側の人だと思うのだけれど、1人の女性がマイクをもって歌い、みんなをリードしているふうであった。
 私はこれを見て、なぜ私がこの歌に過剰とも思えるような反応をしてしまうのが、すこし理解したような気がした。それは、この歌においてマイクをもつのは誰なのか、ということに関係しているように思った。


 誤解をまねくといけないので、ちょっとことわっておく。私はそのグループの行動やあり方、その是非について何かを言うつもりはない。グループの事情は、通行人にすぎない私には知りえないのだし、私が書こうとしているのは、あくまでもあの歌に強い拒否感をおぼえる私の問題であるからだ。
 また、それが歌われる状況・聴く人の位置から切り離した、歌そのものの「評価」を行なうつもりもない。たとえば、子育てに悩む人などが「あの歌で救われた」という話を聞くのも事実で、そのことを軽視することはできない、と私は思う。


 しかし、一方で、あの歌に私のように違和感をいだく人もけっこういるようで、こちらなんかは、なかなか興味深く読んだ。
 で、茶化している書き込みのなかにも、核心をついているんじゃないかと思うようなものもあったんだけれど、他方でこの歌への苛立ちを表明している書き込みにも、隔靴掻痒というか、微妙に的を外しているんじゃないかなあ、と思われるものが目立った。そのずれ方というのが、ちまたに転がっている「反ゆとり教育」論の語り口を安直に借りてしまっていることからくるのじゃないかと思った。
 要するに、例のアレだ。「最近の教育では、『個性』の名のもとに、競争の価値を過度に否定する風潮が強く、運動会の徒競走でも1等賞を決めるのはよくないってんでみんな仲良く並んで手をつないでゴールするらしいんだけれど、実社会に出れば競争社会が待っているわけだし、そういう現実から目をそらして『個性、個性』って言うのは欺瞞もはなはだしいのであって、それにそれって共産主義じゃなくね?」っていうやつ。
 たしかに、あの歌詞は、かつての文部省方針をそのアホさもそのままに正確になぞっている側面があって、その考えの浅さと言葉の練れてなさにツッコミを入れたくなる気持ちはよくわかる。

それなのに 僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で
一番になりたがる?


そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい


 「個性」なるものが「競争」のアンチ・テーゼになるかのような語り口は、まさに中曾根中教審の答申をなぞっているにすぎず、「そんなもん真に受けるなよ、マッキー」と思うのであった。「一人一人違う」という「個性」なるものは、他と「比べ」てはじめて言えることであって、そんな「個性」の尊重を唱いながら、一方で「どうしてこうも比べたがる?」って、さも訝しげに首をひねってみせるのは、「なにをイノセントなふりしていらっしゃるの?」とこっちが首をかしげたくもなるというものではある。
 「個性」に価値をおくことと、他人と自分を「比べたがる」ことは、ぜんぜん隔たったことでない。だから、「競争」へのアンチテーゼとして「個性」を持ち出すこの歌も的外れなら、反対に、「ゆきすぎた個性尊重」への批判として「競争」原理で動く「現実」を持ち出すのも的が外れている、と思う。
 「個性的でもいい」という優しいいたわりの言葉は、「個性的なことはいいことだ」という価値観を含んでいて、その価値観は「個性的でなければならない」という圧力へと容易に転化する。それが圧力になったとき、他人と自身を「比べたがる」ていうより、《比べざるをえない》。そもそも、「個性」が「人材」としての価値に強く関係しているのが、ポスト工業化社会(っていう言葉でいいの?)における「競争」ってもんじゃないのか。「個性」が「競争」のアンチテーゼになるなんて、そんな寝言いまさら言わないでくれよ。


 ところが、そうは思うものの、これが「個性」を唱っているだけの歌だったら、私はかくも不愉快な気分にはならなかったとも思う。「アホか! おめでたいね。おめでとう」って聴き流しておしまい。おそらく、この歌にはよくもわるくも、感情を刺激する別の要素があるのだろう。
 私とは反対にこの歌によって「救われた」という人もまた、「個性」を唱っているのとは、なにか別の側面に心を動かされているのではないかと想像する。想像の域を出ないのだけれど、かりに自分の子どもの言葉が「遅れて」いるのに悩んでいる人が、「それも個性だよ」と言われて、かんたんに勇気づけられたり励まされたりするとは、ちょっと考えにくい。
 この歌には「一人一人違う」「個性」を大切にしようということのほかにもうひとつメッセージがあって、それは他人と「比べるな」ということだろうと思う。他人と比べることで見出される「個性」なんぞ、他人と取り替え可能な相対的なものにすぎない。「比べるな」というメッセージは、それと別に「取り替え」のきかなさ、存在の「かけがえのなさ」について言っているのだろう。
 そんな「かけがえのなさ」を賛美する歌として、たとえば、《親から》《わが子に向かって》歌われるとき、この歌は肯定されるのかもしれない。そんな気がする。


 しかし、歌われる状況・文脈をそこからずらして見たとき、やはり私はこの歌を肯定できない。スターとしての歌い手から一人称を奪取して、みずからの歌としてこれを歌うことができる人は、あるいはこの歌を肯定できるのかもしれない。自身が庇護する「かけがえのない」相手に向かって、その「かけがえのなさ」を歌う、そういうことが可能な立場にある人にとってこそ、この歌を歌うことは心地よいのではないのか。
 私がこの歌に苛立つゆえんは、歌そのものの内容というより、むしろ《スターとしての歌い手が》《マス・メディアを通じて》《不特定多数の聴衆に向かって》各人の「かけがえのなさ」を唱うという構図にある。恩寵をばらまくように。これってすごく危険なことなんじゃねえの、という気がする。
 もっとも、私がこれに向かって、おとなげもなく「くそったれ! テメエの癒しなんぞ要らねえよ」とケツをまくって激昂してしまうのも、なかなか弱いところを突かれたってことなんだろう。


 ところで、この歌が「反戦歌」だって言い出した御仁があちらこちらで顰蹙と失笑を買っていたようだけど、まったくもってピンボケもはなはだしいと思う。
 「個性」にしろ「かけがえのなさ」にしろ、存在の価値を上から付与してやるっていう歌や語りには警戒した方がよいと思う。それは「反戦」よりも「動員」と相性がよかったりするんじゃないの。「君にしかできないミッションをぜひ与えようと思うんだけど、どうかな? やってみる気はないかね?」とか言われたら、私だってホイホイと戦場に行ってしまいかねない気がしないでもない。こわいこわい。

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中 誇らしげに
しゃんと胸を張っている


 大臣や士官だけが偉いのではないのであります! 最前線に立つ兵士はもとより、ひいては銃後を護るご婦人方、学徒勤労動員にて物資の生産に従事しておられる方々の協力があって、この戦争は遂行せらるるのであります。
 争うこともしないで誇らしげにしゃんと胸を張っている、誇らしげにしゃんと胸を張っている、しゃんと胸を張っている……