立ち小便の後ろ姿──失はれた昭和の原風景


 早朝のことであつた。
 室内での喫煙を禁じられてゐたので、私はやむなくビルヂングの外に出てゐたのである。そこは繁華街のはずれに位置する界隈で、路地を入るとバーやスナツクなどが散在してゐるのだが、もちろん早朝のこと、とつくに店じまひをしてゐる。
 朝の光の下にあつて、なほさらうらぶれた感のするスナツクのわきに、古びた木塀があつた。その前で、高校生とおぼしき男児がひとり、いくぶん丸めた背中をこちらのはうに向けて、軽犯罪法に抵触する行為をば、なしてをつた。


 さういへば、これもひさしく見かけなくなつた光景である。私が子どもの時分には、老若男女を問はず、もとひ、老若を問はず男どもが塀や垣や電信柱の前に立つて、背を丸め首をかしげて用などなす姿は、さほどめづらしくなかつたやうに思はれる。雪の積もつた電柱や木のかげに、そこだけ雪がとけて黄色いへこみなど空いてゐるのも、おもへば冬の風物詩であつた。子どもだつた私も、「これぞ、男らしさ」とばかりに大人たちをまね、朋友たちと仲良く並び立つて、距離といきほひを競ひ合つたものである。
 なにも便所に不自由してゐたわけではない。たいてい家の近所で遊んでゐたのだから、自分か朋友の家の便所を使ふこともできたのだし、公園の共同便所だつてあつたのだ。だいたい、私どもは、公園で野球などやりながら、そこにある共同便所を使ふことをいさぎよしとせず、わざわざ立ち小便を敢行してゐたのである*1
 今朝見かけた、くだんの高校生にしたつて、30メートルも歩けば、終日営業のコンビニエンス・ストアなどもあり、便所が借りられぬわけではなかつたらう。私が、期せずして懐古の情などかき立てられたのは、まさにこの点なのである。断言してもよいが、彼の犯行はけつして、せつぱ詰まつた果てのやむにやまれぬものではなかつた。私は一部始終をはからずも目撃してしまつたが、彼のしぐさには不自然さがいつさい見られず、その態度には余裕すら感じられた。
 私は感心してひとりごちた。「さては、おぬし、きのふけふの素人ではないな!」


 わが身を振り返つておもふに、立ち小便と喫煙は、通過する年齢が異なるものの、よく似てゐる。

  1. それはかつて、「大人の男」を模倣して行はれた。
  2. 親たちはこれを子どもたちに禁止した。少なくとも、好ましい習慣としてこれを奨励することはなかつた。
  3. さうであればこそ、ナイーヴな男児どもはこれに「無頼」じみたかつかうよさを見出し、その背伸びした「自立」の美意識にみづから酔つた。
  4. また、その行為のうちに、をさない心には心地よく感じられた「仲間の証」としての秘密のにほひが、かすかにたつてゐた。
  5. それはいまや「環境」とか「衛生」とかいふ有無をいはせぬ圧倒的な力に屈しやうといてゐる気がしてならない。
  6. そして、ここでの「環境」といつた観念は、「人類」なんかとはもちろん無関係で、むしろ階級と関係してゐるやうに思はれる。
  7. とりわけ、千代田区ではやりにくい。


 立ち小便が見られなくなつたやうに、喫煙する姿が追ひやられていくのかもしれない。しかし、私が住んでゐる近辺の街ではまだ、空気のやうでありながら圧倒的な、目に見えぬ力は、あつぱれな小便小僧を萎縮させるには及んでゐないやうだとも思つた。

*1:さういへば、そんな私どものあひだでも、しかしながら野糞はタブーであつた。