ハイウェイと神社──異界への通路としての


 家の近くに、数年前に高速道路が通ったのですよ。夜、駅からケッタをこいで家に帰ってくるときに、その下をくぐったのだけれど、暗がりにそこだけ妙に明るくて、なんかあいつぶっこわしてやりてえ、って思った。ああ、マジぶっこわしてやるよ。


 以上、「起承転結」でいうと「起」にあたるんだけど、「承」はすっとばして「転」に行くぜ。
 私は、もし面と向かって「きみは無神論者か?」と訊かれたら、確信をもって「はい、無神論者です」と答えられる自信はないのだけれど、まあ信心深い人間ではない。祈ったり手を合わせたりする習慣はないのですが、神社はけっこう好きな空間ではある。


 もっとも、観光名所になっているような神社には別段心を動かされることはない。明治神宮とか、どうでもいいね。ひと様が見てさえいなければ、野糞もへっちゃらっつうか、今度神宮球場に野球など見に行く機会があったとして、もし巨人が勝つようなことがあったならションベンでもひっかけてくることも辞さねえっつうか。あんなもん、便所です。なにお高くとまってんだよ、えらそうに。なーにが、明治天皇さまだよ、あほんだら。
 しかし、酔っぱらってきた帰りに、地元の小さな神社の境内に座って、ゆっくり缶コーヒーなどすするのは、なかなか心地よかったりもする。夜中に──門を閉じて人を締め出したりしないのもいいね──鳥居をくぐるときの感覚は、異界に入り込むって言うとすこしオーバーかもしれないけれど、俗世間からの逃げ場としてこの空間が確保されているっていう心もちがして好きだ。
 一方、お寺って、きれいなつくりをしていて、明治神宮みたいな憎たらしさはおぼえないものの、清潔すぎて落ち着かない感じがする。でも、神社の様式は、聖なるものも俗なるものも、浄いものも穢れも、善も悪も、ごったに包み込むような感がある。だから、おそろしい不気味さと同時に、やさしさを感じるのだ。
 4歳か5歳のころ、おたふく風邪かなにかをこじらせて入院したことがあった。祖母がよく見舞いに来てくれた。この祖母が霊感があるという人だった。病室で夜を越すのはただでさえ不安なのに、祖母ときたら怪談を土産話に置いていくのであった。「夕方、権蔵ちゃん(私の名前。本当は別の名前だけど)のところに来るとき、○○神社のわきを通ってきたんだけどね。桜の木のかげから、いーっぱい目が光っててこっちをジーッと見てんの! もお、おばあちゃんこわくなって、も〜うぉ、『ぎゃー』っていって一所懸命駆けてきたんだっちゃ……」
 その「いーっぱい」の「目」は、もはやだいぶ心もとない記憶ではあるが、たしか祖母の説明では「泥棒など悪いことをやった人たち」とのことだったと思う。ともかく、罪深き者も業深き者も、そこにおいては身を隠す場を与えられる、それが神社なんじゃないかなあ、と思う。もし、神主さんとかがこれを読んだら「なに勝手なことぬかしてんじゃい、ボケ」とか怒られるかもしれないけれど。狛犬さんたちも、おそろしくもあるものの、私は好きだ。
 神社は、私にとって、そんな異界への入口としてある。


 で、高速道路なんだけど──ハイ、ここから「結」ね──今晩、私にはそのずっとむこうに異界が広がっているように見えた。しかし、それは心地よい空間ではなく、私たちを切り裂き、侵す、もっぱらまがまがしい凶兆としての通路に見えた。
 うまく言えないのだけど、かつて、けもの道を分断して生態系を破壊し、原住民に未知の病を運んでくることでかれらを絶滅の危機に逐いやった「道路」って、こういうものだったんじゃないかなあ、とつい想像してしまうような、そんなまがまがしさを感じた。
 私は、その高速道路を使ってその向こうの世界に行くことはないだろう。あれは私の道路ではない。しかし、そこを通ってこちら側にたくさんの物資が商品が日々投下されている。家の近くには最近イーオンができた。今晩も、そこで買った惣菜を食した。でも、私は高速道路を通って向こう側に行くことはできない。なにか世界はめまぐるしく動いているようだ。しかし、世界は一方通行的に分断されて、こちら側にいる私は取り残されて、何もなすすべがない。


 狛犬の前を通るとき、僕らは平等だった。いま高速道路の高架の下にたたずむ僕らは指をくわえて見上げるだけだ。