2つの死体


 ステレオフォニックスに Local Boy In The Photograph(ASIN:B000026WGB)という歌があって、その歌詞がスティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』(ISBN:4102193057)を思わせる。


 こういう歌詞の歌です。
 時間的な距離感をつかみにくい詞でよく解釈しきれないのだが、列車にひかれて死んだ幼なじみについて歌っているようではある。

There's no mistake, I smell that smell
まちがいない、あの匂い


It's that time of year again, I can taste the air
またあの季節がやってきて、その空気を味わう


The clocks go back, railway track
時計の針は戻り、鉄道の線路


Something blocks the line again
また何かが線路をふさいで


 こんなふうに回想的に歌い出されるわけだから、事故は何年か前の出来事なのだろう。
 上の引用箇所につづくのは、仲間たちが集まって花をたむけ、酒を飲み、最後にみた彼の様子を語りあう場面。ここは現在形で歌われている。
 そして、"He'll always be 23, yet the train runs on and on / Past the place they found his clothing(彼はこれからもずっと23歳のまま。でも、彼の服が見つかった場所を通って列車は走りつづける)"というわけだから、彼が事故で亡くなったのは23のとき。ところが、曲タイトルにもあるように写真の彼は boy である。
 少年時代の彼との思い出についての描写はまったく出てこないで、少年時代の彼は「写真のなかの」と示されるだけ。そのかわり、その後23歳で亡くなった彼を仲間たちでとむらっている場面が描かれているのだが、その彼と歌い手の関係はそれ以上になにも示されない。


 整理すると、こういうことなのだろうか。

  • 少年時代の友人(Local Boy In The Photograph)がいて、彼とはしばらく会っていなかった。
  • そのしばらく会っていなかった友人が23歳で亡くなり、すでに青年となったかつての仲間たちが、知らせを聞いて久しぶりに集まった。
  • さらに何年かの時間が経過し、歌い手はすでにその青年時代を回想する年齢になっている。
  • しかし、おもしろいことに、歌を「感傷的」なものにしあげるために欠かせないと思われる、ありし日の彼の具体的な姿はまったく登場しない。


 細かいことに拘泥するようだが、気になっているのは、この歌と『スタンド・バイ・ミー』との相同性なのだ。
 少年時代の回想として書かれたキングのこの小説は、列車でひかれた少年の死体を友達4人で探しに行くという冒険潭であった。その4人はこの少年時代の冒険を成し遂げるのだけれど、その後主人公以外の3人は青年期を通過することができない。とりわけ、3人のうちもっとも主人公が心を許したクリスの死は痛切に描かれる。
 いわばこの小説の主人公、というか語り手は、2つの死体(少年時代に探しに行った見知らぬ少年の死体と、修士課程の2年目に死んだクリス)をみずからの分身として回想していることになる*1
 この点で私は、『スタンド・バイ・ミー』という作品に妙なリアリティを感じる。私自身、少年期から青年期をふりかえって何かを語ろうとするなら、やはりそこに2つの物言わぬ分身(少年のものと青年のもの)を配するような気がするからでもある。クリスの死は、物語上の必然だったように思えてならない。作者はこの作品を少年の冒険潭として終わらせることができずに、クリスを殺さずにはいられなかったのではないだろうか。
 しかし、それはどんな必然性? そこがずっと気になっているのだけど、わからない。


 『スタンド・バイ・ミー』の少年の死体は、しゃべりだしたりはしなかった。死体はずっと黙ったまま。彼が生きた過程が描かれることなどもちろんなく、物語の最初から最後までそれは一貫して物言わぬ死体のままだった。
 ステレオフォニックスの歌った少年は、写真のなかでやはり黙ったまま。23歳で死んだ男がかつて少年だった、ということを示すだけの黙した写真。
 それは納得しやすい事態だ。僕らは少年時代と別の世界に生きているのであって、深い断絶の向こうから届く言葉なんてない。少年時代の僕やその分身としての死体が、今の私に語りかけてくる言葉はない。だから、こちら側から向こう側をのぞきみることはできても、向こうの彼らはきっと黙ったままだろう。だからといってそこに感傷をおぼえることもない。それはあまりに当たり前のことだから。向こうは(こちら側から見る限りは、ということだけれど)何もかもが未分化な世界で、だから《それについて》今の自分が語りたいと思いこそはすれど、《それ自体が》こちらに語りかけてくる言葉なんてないのである。そういう意味で死体なのだ。


 しかし、強烈な印象を与えずにはおかないのはもうひとつの死だ。もうひとつこちら側の死、23歳の礫死体とクリスの死だ。
 って、ここから先は何かを言おうとしても、どうしても言葉にならぬ。もどかしいなあ。
 言いたいことの周囲を旋回することにしかならないけれど、『スタンド・バイ・ミー』という作品に階級社会への怒りのようなものが流れているのは、たぶん重要なのだと思う。クリスは「職業訓練コース→工場労働者」というレールから脱出しようと切望しながら、果たせなかったわけだ。現在「作家」であるというこの物語の語り手=主人公の目から、これは文字通り身を切られるような思いとして描かれている。そういう意味で、クリスは主人公の分身である。
 それは「かつて幸福な時代があって、今は不幸になりました。ああ、あの日に戻りたい」なんていう話ではない。何もかもが未分化だった時代は、今やくすんだ写真でしかなく、そこへの憧憬はあらかじめ絶たれている。というか、そんな憧憬を絶つようにしてクリスは死んでいる。

*1:事実、作品中でこの2人は、語り手自身の分身として直接言及されている。見知らぬ少年に対しては「あの少年はわたしだ、と思う。そしてあるひとつの思いがまるで冷たい奔流のようにわたしをこごえさせる。“どの少年のことだ?”と」いうふうに[282ページ]。クリスについては「もしクリスが溺れたら、私の一部も彼とともに溺れてしまっただろう」と[307ページ]。