「終末」後の世界――『北斗の拳』をめぐって


 『北斗の拳』は、話の途中から主人公であるケンシロウが、より強大な「兄」や「強敵」*1を《克服》していく物語になってしまうわけだけれど、連載初期はいびつながらもある種の時代劇の形をしていたのだなあ、と先日読み返して思った。


 私が「ある種の時代劇」と言って想定しているのは、「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」とか「大岡越前」とかのことです。すなわち、こういうこと。

  1. 主人公(ヒーロー)は、身をやつして庶民の間にひそんでいる高貴なる者。
  2. ヒーローは、身分が高いだけでなく、めちゃくちゃに強い。無敵。(1と2は、「水戸黄門」では、1=黄門、2=助さん角さん、というふうに分業されているわけだけど)
  3. ヒーローは、弱者たる庶民が権力者や金持ちにいじめられているのを助ける。
  4. ヒーローは、内面的に葛藤しない。絶対的に正義。
  5. ヒーローより強い「敵」はいないのだから、彼が何かを《克服》して《成長》するなんてこともない。ヒーローがピンチになる場面は皆無。ただ、圧倒的な力で「悪者」を殺戮しまくる。

 

 『北斗の拳』(初期)は、1の要素を欠落させた時代劇とみなしてよいように思う。核戦争でドッカーンとなった後の弱肉強食の世界という設定だから、「権威」など既にふっとんでいるのであって、小権威の横暴をより上位の権威が出てきて成敗するという形にはなりようがないわけだ。ケンシロウは、ただ強いだけ。
 しかしながら、そのただ強いだけのヒーローの「正義」を根拠づけるものが何かというと、そこは勧善懲悪時代劇と一緒である。


「いかにも」な悪役が出てきて、おばあさんとかの弱者をぶっ殺す。
   ↓
ケンシロウ、激怒する。
   ↓
敵をぶちのめす。


 「悪者」が「弱者」を虐げているから、これをやっつける。やっつけてもよい。というわけだ。
 肯定するかどうかは別として、これでお話としては成り立っているじゃないの、一応。むしろ、この方がすっきりしてはいる。
 すると、水戸黄門一行が出す葵の紋章は、あれなんなのさ、と思うわけである。彼らが実は水戸光圀とそのお供の身をやつした姿である必然性はどこにあるのか。ただの隠居の爺さんとお供する浪人侍らのグループであってはいけないのか。
 これについて、「日本人は権威好きだから」みたいなよくわからない説明ではなく、物語構成上の必然性から説明できないものかと考えているのである。
 なんて問いをたてても答えが出ないな、当分。ということで、とりあえずやめやめ。




 話を戻しますが、上に述べたのと別の側面からも、水戸黄門などの時代劇と『北斗の拳』は、案外近いということが言えるように思う。。
 水戸黄門は、貴人が都や故郷を追われて身をやつして各地を放浪する、という貴種流離譚の話形をなぞっているようでいて、そうではない。暴れん坊将軍もそう。「貴人が身をやつす」という要素が含まれているにせよ、そもそも彼らは迫害されているわけでもなければ、克服すべき試練を与えられているわけでもない。肛門様一行の放浪には、旅に出る契機・動機(始点)もなければ、目的(終点)もない。貴種流離譚であるならば、それは成長物語でもあるはずで、またハッピーエンドへと向かう時間の流れがあるはずである。しかし、テレビでシリーズ化された水戸黄門暴れん坊将軍大岡越前の時間は、永遠に循環し続ける。
 『北斗の拳』もまた、初期においては、始まりも終わりもない循環する物語として構想されていたフシがある(むろん、作者の意図・計画がどうであったかということは知りえないのだけれど)。ケンシロウには身寄りがないはずであった。
 だから、ジャギなるキャラクターに「きさまにはまだふたりの兄がいることを忘れたか!!」と死に際に告げられ、ケンシロウが「な…なに あのふたりが生きていたのか!!」と驚いてみせたとき、『北斗の拳』という物語は変質したのだと思う。もっとも、「ふたりの兄」は血のつながりのない「兄」ではあったのだけれど、ケンシロウよりも強大な兄(=《克服》すべき試練)が与えられたということは、時間がふたたび終末に向かって流れ始めたことを意味する。で、以来、「ふたりの兄」のほかにも次々と「強敵(とも)」が試練として送り込まれてくるわけですね。こうして、終末の「前」へと時間が逆戻りする。またもや終末を待たなければならないのか。
 そもそも『北斗の拳』は、終末をすでに経てしまった核戦争後の世界において開始された物語であったはずである。そこが、水戸黄門等との違いだ。


 ったく、われながらくだらねえこと書いてるなオレ、って思うのだけれど、80年代に多感なときをすごした者として、「終末」とか「世紀末」とかというのは、どこかでケリをつけねばならんという気がするのでやす。『北斗の拳』『アキラ』『危険な話』『漂流教室*2ノストラダムスの大予言』からNHK特集の核戦争の恐怖を描いたドキュメンタリー*3まで。そういった終末グッズ=ユートピアのイメージがあふれていた。そして、それはいまわしき未来・阻まねばならぬ危険への警鐘としてというよりも、欲望の対象として消費された。
 まあ、「世代」的なくくりでものを言うのもナンではあるので、「私は……」という語り方をすべきだろうね。すくなくとも私は、甘美なものとして「世紀末」とか「終末」とかの観念を受容した。「その後」にくる世界を憧憬したのである。ったく、アホかってなもんではあるが、まあ事実なのだからしょうがない。で、「終末」とは何だったかというと、それは「ルーツ」を切断しようとする欲望であったような気がする。貴種流離譚ではない放浪の物語。「みなし子」の世界。しがらみなんてないんだ、全部チャラだぜ、チャラ。「自由・平等・友愛」のスローガンの劣悪なるコピー。脳内革命! バカ!
 オウムは、あんまし他人事ではない。彼らは気づかなかったんだね、もう「終末」が来ていることに。そして、その「終末」後が単なるマッチョの跋扈する不毛な世界であることに。だから、待ってたんだね、これから「終末」が来るのを。そして待ちきれなかった、と。

*1:「強敵」と書いて「とも」と読ませるのね。

*2:楳図かずお漂流教室』は、あらためていま読んでみて傑作だと思います。当時は、単なる「終末」モノというホント皮相な読み方をしていたのだけど。

*3:そういえば、そこで憂慮されていてのは「地球温暖化」ではなく「核の冬」だった。