衝動買い

 「欲しい」という欲望と「買いたい」という欲望は、微妙に違うように思う。
 ここしばらく、私は「アコギが欲しい」とは思っていたのだけど、実際に購入するまでには至らなかった。ところが、昨日になって「買いたい」という強い衝動にとりつかれまして、フラフラッとATMに寄り、フラフラッと楽器屋に入ったのであった。「欲しい」というのは、商品に対する欲望。それに対して、「買いたい」というのは、「買う」という行為自体にともなう快楽を追求する欲望のあり方である。
 不思議なもので、買い物というのは、ちょっとしたストレス解消になるような気がするのね。特に、高額で、かつ日用品でない品物は、「買う」という行為自体がぜいたくな感じがする。
 さて、アコギに関して、私はどのメーカーのどの楽器がどんな音がするのか、という知識がほとんどないもので、まず店員を選ぶ。3軒目に入った店の、50代くらいの寡黙で実直そうな男性店員(店長かな)に、相談してみた。
 予算を伝え、硬めの乾いた感じの音のが欲しいとかなんとか、希望を伝えたのだけど、店員氏は30秒ほど沈黙している。やっぱ伝わってないかな、言葉で音のイメージを伝えるのは難しいよなあ、と思ったが、店員氏は「うーん、Gibson なんかの音をイメージしているんでしょうけど……」とおっしゃる。そうそう、Gibson みたいな音が欲しいの。あんな高価なの買えないけどね。しかし、「Gibson は塗装の仕方が独特でしてねえ、ご希望の予算で、まあ音質が落ちるのは仕方がないにしても、似た傾向の楽器を探すんでも、難しいですねえ……」と、また30秒ほどの沈黙。その間、店員氏は店内のギターを見て回る。「これ、なかなかいい材質のを使ってるんですけどね」と言い、Aria というメーカーのギターを持ってくる。
 で、弾かせてもらったんだけど、たしかになかなかいい。わりとクリアな音がするし、強めに弾いたときの低音弦のバリバリ鳴る感じもよい。低音弦が「ポコポコ」としか鳴らないやつだと私としては不満なわけで、バリバリガリガリと硬く鋭い音が出て欲しいのだが、この点でわりと満足できる品物だった。高音もちゃんと響くし、高低のバランスもいい感じ。同じくらいの価格のギターと比較してみたけど、格段に音がよろしい。というわけで、数十分店内で弾き倒してから購入。45,000円なり。
 まあ、楽器としては廉価品の部類に入るものとはいえ、それでも私の生活水準では高い買い物ではあるわけで、しかも生活必需品ではまったくないという点で贅沢品でもある。そういう買い物をするとき、私はきまって――これは私だけなんだろうか――「離人症的」な感覚におそわれるのである。「離人症的」という言い方が適当かどうか知らないけれど、自分がここに存在しているという現実感が遠のいていって、「あれ? おれ何やってるんだろう。おれはどこにいるんだろう」という気分になるのだ。こういう浮遊するような感覚は、本やCDを馬鹿買いするときなんかにも生じる。
 いったいこれは、なぜなんだろうか。
 買い物をするとき、現実感が稀薄になった頭ン中で、私は考える。たとえば、この5万なら5万という価格は、何時間分の労働に相当するのか、と。もちろん、それは計算すればすぐに分かることだ。しかし、その何時間分の労働のイメージは容易にできても、その「労働」と「いま手にしている商品」が等価であるという事態がうまくのみ込めないのである。つまり、私の「労働」と目の前の「商品」は貨幣を仲立ちにして等価に置かれるわけだが、そのことが感覚的にピンとこないのだ。
 いま手に入れたギターは、「労働の報酬」なんだろうか。報酬は労働そのものから受け取られるべきものではないのだろうか。
 労働は、その結果が有形であれ無形であれ、なにごとかを作り出す営みにほかならない。畑を耕す者は自身の労働によって収穫物をその手に得るのだし、楽器を奏でる者は音楽をまず自身が手に入れるのである。貨幣という媒介のないところでは、報酬は、労働そのものから成果として与えられる。
 現代社会において現実的には、みずからの労働そのものから直接に無媒介的に何かを手にすることは難しい。それでも、現実の労働においても、それを手にすることは皆無ではない。つねにではないにせよ、また「充足感」や「やりがい」といった精神的な、つまりは本質を欠いた抜け殻のようなものとしてであるにせよ、みずからの労働そのものから私たちは何かを受け取る瞬間がある。だから、私たちは、現代の現実の労働を「ゆがみ」と認識することができる。
 私の十何時間かの労働は、一度貨幣によって抽象化され、労働と別のところでギターという商品として私の手に帰ってくる。これは、なにか変なのだ。
 なんか初期マルクスを百分の一くらいに薄めたような、『経済学・哲学草稿』の部分的劣化コピーのようなことをこうして語っているわけだが、なんか変だということを実感として強く思うのである。自分がこうしてギターを手にしている、という事態がである。
 もちろん、新しい楽器を手に入れるというのは、最高に幸福なことで、私はたぶん帰りの電車でニヤニヤしていただろうけど、自分がギターを入手しえた原因である労働と、その結果としてのいま手中にあるギターとが、うまく結びつかないのである。労働は労働として、娯楽は娯楽として、両者が分断されて別のところにあるということは、なにか根本的におかしい気がする。
 と、ここまで考えてみても、あの「離人症的」な感覚がどうして生じるのか、いまだ謎だ。納得のいく説明を得たいのだけど、よく分からない。「貨幣」とか「交換」とか、そういったことだけでなく、「所有」というのもあの感覚には関わっているように思う。しかし、「所有」についても、私はどういうことなのかよく理解できていないのだろうと思う。