「足りない」では足りないのか?

「少なすぎる」とか「腹が減りすぎて」とか「根性が無さすぎる」とかの表現は、どうもしっくりこない。
 ふつう、「すぎる」は「大きすぎる」「寛容すぎる」「食べすぎる」というように、形容詞・形容動詞の語幹、または動詞の連用形に接続する。しかるに、最後にあげた「無さすぎる」は、この法則に反する。つまり、形容詞「無い」の名詞化した「無さ」に「すぎる」をくっつけて「無さすぎる」といっているわけだが、これは「大きさすぎる」「甘さすぎる」というようなもので、変だ。先の法則を適用すれば「無すぎる」でなければならない。ナスギル。
 もっとも、「無さすぎる」は慣用として定着しつつあるように思われる。そこに法則だ文法だと目くじらを立てるのもおかしい。文法などというものは、すでに使用されている言葉を事後的に観察して見いだされるものにすぎないはずだ。あたかも文法が「規範」として言葉の慣用に先だってあるかのように、でかいツラするんじゃねえ。と、私は思うわけであります。要するに、「文法」などというものは、たんなる後付けの説明でしかないのである*1
 だから、べつにいいよ、「無さすぎる」で。
 という気も一方ではするものの、やっぱり変だ。だって、「無い」ものは「無い」んだから。「無い」ものはすなわち「存在しない」のであって、「過ぎる」も何もない。「無さすぎる」または「無すぎる」ではなく、「根性が少なすぎる」と言うべきではないだろうか。
 いや、それでもなにかしっくりこない。すわりが悪いのである。
「少なすぎる」「小さすぎる」「減りすぎる」「足りなすぎる」。これらの表現は、私のかよわい頭脳をいたく混乱させるのである。
「多すぎる」「大きすぎる」「増えすぎる」。これらはシンプルで分かりやすい。それぞれ、数量・サイズ・増加の程度が、一定の許容量を越えている、すなわち「過剰だ」ということで、表現の意味するところが論理的によく分かる。
 しかし、たとえば「足りなすぎる」。何だこれは? 「不足」なのか「過剰」なのか、どっちなのだ? 「少なすぎる」「小さすぎる」「薄すぎる」も同様である。
 たしかに、「足りなすぎる」といった言い方も、論理的に成り立つとは言える。しかし、この「論理」を成り立たせるためには、きわめて高度な知的操作が要求される。
 たとえば、「味噌汁の塩気が足りなすぎる」(言いかえると、「塩気の不足が過剰である」ということである)という場合を検討してみよう。
 味噌の理想的な適量を a とする。実際に味噌汁に含まれている味噌の量を b とする。
 このとき a=b ならば、私たちは「過剰」でも「不足」でもなく、「いいあんばいだ」と言う。a<b ならば、私たちは「過剰だ(濃すぎる)」と言う。反対に a>b ならば、私たちは「不足だ(薄い)」と言うであろう。
 ここまでは単純な話である。
 ややこしいのは、たんに「濃すぎる」でも「薄い」でもなく、「薄すぎる(塩気が足りなすぎる)」と言う場合である。これは数式化すれば、a から b を引いた値(すなわち a−b)が、一定の許容量(この値を c とする)を越えて大きいということになるから、えーと、どうなるんだ?
 "a−b>c" ということだね。
 反対に、a−b<c の場合、「まあ、ちょっと薄いようだが、がまんできないほどでもないかな」ぐらいの意味になる。
 つまり、「足りない」にもその「足りなさ」の程度が甚だしい場合と甚だしくはない場合の両者があって、前者を「足りなすぎる」と表わしている、ということになるか。
 めんどくさいなあ、もう。「足りない」と言えばすむことじゃないか。なにも「足りなすぎる」なんて頭のこんがらかる言い方しなくたってさ。どっちにしたって、足りないぶんを加えればいいだけの話ではないか。

*1:ただし、母語としてではなく言語を習得する場合、「文法」は不可欠であろう。「文法」の権威化を排撃するあまり慣用を過度に重視する見方をとると、言語を閉ざされたシステムとみてしまい、ひいては言語ナショナリズムにつながる危険性があると思う。が、その点はここでは措く。