死ぬまで手洗いをやめぬのだろうか

 寝不足なのでもう寝たほうがよいのだが、森達也『世界が完全に思考停止する前に』(asin:4043625030)を読んでいて、目からうろこが落ちた。文字どおり、「思考停止」していて常識にとらわれていた私の脳が活性化し、眠れなくなってしまった。

 唐突だが僕はトイレに行っても手を洗わない。オートで水が出る仕組みなら洗う。だってどこの誰とも知れない大勢の人が、それぞれのオチンチンを触った直後の指先で触れた蛇口にわざわざ触りたくないからだ。数年前では僕も無自覚に洗っていた。でもある日ふと気がついた。どう考えても不合理なのだ。
 この習慣を整合化するためには、自分のオチンチンは他人のそれより汚いという前提が必要になるが、もちろんそこまで考えている人はいないだろう。「手洗い」という言葉が示すように、要するに一定量で思考が停止して、トイレは手を洗う場所だと無自覚な思い込みになっている。(後略)


 しかし、ここで興味をひかれるのは、森さん、ウンチしたときはどうするんだろ、ということである。自分のウンチと他人のオチンチンとどっちがより汚いのか。これは大問題である(ウンチに触れてしまうことは稀であるが、誤ってさわっちゃったと仮定して)。手を洗うべきか、洗わぬべきか。
 もっとも、「便所に行ったら手を洗う」という習慣自体に、衛生的な根拠はないと言ってもよいだろう。なんなら食べたってべつだん身体に害はないのである。したがって、問題は心理的文化的な次元、換言するならば神経症的な領域にあると言えよう。《抑圧》の問題である。
 「排便後に手を洗う」といえば、私なんかはじつにみみっちい人間で、上記のようにしてその行為にたいした根拠や意味なんぞないという判断を頭では下しつつも、ついつい手を洗ってしまう。他人の目を気にしてそうしているのかといえば、必ずしもそうでもない。人が見ていなくても、おざなりにながらも洗ってしまう。
 意味なんかねえよ。そう頭の隅では思いつつ、くだらないと分かっている行為を延々つづけながら生きている。それが人生だと言うこともできようが、こんなはずではなかったのにというやりきれなさも残るものである。「認識」や「理解」としてすでに下された結論は、因習を断ち切るに到らず、無力なまま頭のなかで空転し続ける。
 もっと若い頃、たとえるならば「オレはウンチしても手なんか洗わねーぜ、ベイベー」と言い放つようになるような転機みたいのがいつか自分に訪れて、そこに人生が開けるもんだ、そんなふうに未来をイメージしていたものだった。