軍隊にとっての敵とは何か

 実際のところ、自衛隊の武器は、どこを向いているのだろうか。かつての「仮想敵国」はソ連であり、現在のそれは北朝鮮や中国なのであろうけれど、これらの矛先というのはまさにヴァーチャルな対象に思えるのであって、「外部の敵に備える自衛隊」という説明を全面的に真に受ける気にはなれない。そもそも自衛隊はそう遠くないむかし「警察予備隊」や「保安隊」と呼ばれていたのだ。これが「自衛隊」と改称された経緯についてはよく知らないけれど、すくなくとも始めこの「軍隊」が「外敵」ではなく「内」なる不穏分子との戦闘のために創設されたという事実は明白であろう。
 先日来あきらかになったとおりミャンマー軍がビルマ国民を攻撃するための軍隊であったように、自衛隊も――全面的に言えることなのか、部分的にしか言えないことなのか判断するのは難しいけれど――日本国民との戦闘に備えた治安部隊としての一面を持つことは、否定できないだろう。
 とはいえ、そんなことをあからさまに見せてしまっては軍の正当性が揺らいでしまうわけだから、国家は「外敵」という仮想を構築する。それが「北朝鮮」であり「中国」であり、また石原慎太郎いわくところの「三国人」なのであろう。

今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒擾事件すらですね想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救急だけでなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたいということを期待しております。
(2000年4月9日、陸上自衛隊練馬駐屯地での石原発言)


 「治安の維持」が石原の期待する自衛隊の役割のひとつであることをはっきり述べている。石原は、「国民」「市民」あるいは「住民」に向けられた銃口からかれらの目を逸らすための目くらましに「三国人」と言っているのではないのか。
 ところが、軍隊としては「国民」が実際に蜂起するという事態が起こると、困ったことになるのだ。ビルマ国民たちが勇敢に立ち上がったとき、デモ隊を攻撃せよとの指令に対し、少なくない数の将校たちが軍務を放棄し逃走していることが、報じられている。「国民」に発砲せよという命令が、国軍の兵士にいかなる混乱をもたらすのかは、想像に難くない。
 しかし、国家権力はどこまでも狡猾だ。以下に引用するのは、「8〜9月のミャンマーの反政府デモで主導的役割を担い、軍事政権の武力弾圧を逃れた僧侶の一人が、タイ北部メソトの潜伏先で読売新聞の取材に応じた」というじつに興味深い(と言ったら不謹慎であるが)また恐ろしい記事。


YOMIURI ONLINE - ミャンマーのデモ、1月から計画…脱出僧明らかに(→cache)

 連日デモに参加したウ・テ・ザさんは「僧侶が前面に出れば、武力行使を阻止できる。88年と違い、今は世界が同時進行で見ているから軍政は妥協するしかない」と信じていたという。しかし、軍政は26日、武力行使に踏み切り、僧院を破壊し、1500人以上の僧侶を拘束した。デモ弾圧については、「見通しが甘かった。軍政は、ビルマ語を理解しない少数民族の若者や薬物中毒者を部隊の前線に据えた。彼らにとって僧侶など何の意味もなかった」と述べた。


 国家権力は、「少数民族」を攻撃するさいは前線に「国民」を据えればよいのだし、ひるがえって「国民」を攻撃するさいには前線に「少数民族」を置けばその目的を達成できる。国家は、おそらくその領域内の住民をあまねく「国民」へと同化することができないのではなく、あえてそうしないのではないだろうか。マジョリティとマイノリティの分割線を保持し、あるいは必要とあらば創り出し、暴力を組織化するための手段として利用する、ということではないのだろうか。