なぜ禁止されるべきなのか

 しばらく前から毛むくじゃらの体がおっきなサビ猫ちゃんに煮干しをやってたりしたのだけど、最近なでさせてくれるようになった。部屋のなかに入ってくるようにもなった。もっともそれは腹の空いているうちに限ったことで、満腹になったらさっさと出ていってしまうのだけれども。その未練がましさのいっぺんも見せぬ態度がじつに憎たらしい。
 何年か前にもうちになついていた野良猫がいた。すっかりうちとけて、あおむけに腹をみせて熟睡するほどだったから「野良猫」と言うべきなのかどうかわからないけれど、数週間あるいは数ヶ月すがたを見せないかと思えば、なにごともなかったかのようにまた居つきはじめたりということをくり返していたので、本人に「自分が飼われている」などという意識などなかったのだろう。
 猫はわがままと言うが、人間にはみえない何らかの規則にのっとって行動しているように見受けられる。人間は人間で、自覚されている場合もそうでない場合もあるにせよ、その行動には規則性を認めることができる。猫の規則が人間に見えないように、人間の規則は猫に見えないのだろう。
 僕がなにか食べていたりすると、猫は前足をテーブルにかけて、よじのぼろうとする。それはダメよと僕は――もちろん、ひっぱたいたりはしないけれど――抱きかかえてひきずりおろす、ということをしてしまう。猫は「なんでお前はわたしにむかってそんなことをするのだ? まったく不可解である」とでも言いたげな目でじっとこっちをみつめる。そして、いじけてでもいるのか自分の背中をなめる作業に没頭しはじめる。
 もっといたたまれなくなったのは、冬の寒い日。不本意ながら僕には家を留守にしなければならない事情というものがある、というのはじつは自分に対する言い訳であって、良心の呵責を感じずにすむためにそんなことを思ったり言ったりするにすぎぬのだけれど、長時間外出しなければならない、やんごとなき事情というものがあるのである。猫にとってはそんなことは知ったことではないのだろうけれど。ともかく、僕が家を留守にするさい、部屋の中に猫を閉じこめておくわけにはいかないので、まあ僕が外出しなければいいのだけれど、「仕事に行かなければならない」といった口実を自分に言い聞かせつつ猫を外に出すのである。そういうのはもちろん僕の側の勝手な言い分なのであって、実際のところ外はひどく寒い。そんなところにいきなり放り出される猫にとってはたまったものではない。びっくりした顔でこちらをしばらく見上げたかと思うと、そそくさと脇目もふらずに走り去ってしまう。僕は弁解の機会を与えられず――というか、その機会があっても正当な弁解の言葉などありようもないのだが――もうしわけない気持ちでひとり取り残される。
 この日記では、いつも同じ話をしている。人間にとってもまた規則というものは、はじめ自分にとって異質なものとしてあらわれる。そういう場面を出発点にしてしか、僕はものを考えられなくなっているようだ。
 たとえば、幼児はある日おむつを外され、うんちとおしっこをしてよい場所がか限定されていること、またその前提としてうんちとおしっこが「きたないもの」であることを突然に宣告される。その日のことを僕はぜんぜん記憶していないけれど、たぶんそれは僕にとって決定的な日であったのだろう。
 また、身のまわりのもののすべてが「自分の所有するものである」か「自分の所有物でない」かのいずれかであって、後者を勝手に手にとってはいけないという規則にも、突然に出会ってしまう。この規則については、いまだに納得できないでいるということは、最近もここに書いたことがあった。子どものころ、まだ小学生だった弟が本屋から貨幣を払わずにマンガ本を持ち帰ろうとしたことがあった。店から家に電話があり、その後の母の弟に対する剣幕はたいへんなもので、それをわきで見ていたときのいたたまれない気持ちは、いまも鮮明におぼえている。
 インターネットをみると、「このまえ電車のなかでおかきをばりばり召し上がっている方をみかけたのですけど、これって迷惑じゃありませんこと?」という書き込みがあり、これに「さようざます迷惑ざます常識に欠けますざます」などという応答が多数あり、なにやら盛りあがっているようすであった。これも規則に違反する行為なのか、と僕は新鮮な思いでそのやりとりをながめていた。
 日々出会ってしまうもろもろの規則のうち、どれが正当であり、どれが正当でないのか。そんなことをいちいち考えているいとまもないほどに、生活の時間は容赦なく過ぎ去ってしまう。
 神様、なぜ近親相姦はいけないことなのですか。という疑問は、ちょっとまえに読んだルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』という本で、ほぼ納得のいく説明がえられた。ようするに、それを禁止しておかないと、父と息子が、あるいは兄弟どうしが女性をめぐってはてしない争いを始めてしまうから、だという。
 なぜところかまわずうんちやおしっこをしていけないのか。うんち・おしっこをしてよい場所や場面と、そうでない場所場面が区別されるのは、なぜなのか。あるいは、なぜ既存の社会では例外なく「子ども」と「大人」が区別されているのだろうか。これらも、ジラールは直接言及していないけれど、かれの理論をつかって説明できそうな気がする。
 では、なぜたとえば「不法移民」はいけないことで、強制送還されなければならないのだろうか。どうして、「国民」とそうでない者の区別(というか差別)がもうけられなければならないのか。やっかいなことに、これもジラール理論ですくなくとも部分的には説明できてしまうのかもしれない。僕の理性の声は、むしろ「不法移民」「外国人」を暴力的に排除する政府・法務省の行為のほうこそが許しがたい罪業なのだ、と僕に語りかけてくるのだけど。
 たぶんわたしが考えなければならないのは、「なぜ禁止されているのか」という問い方と「なぜ禁止されるべきなのか」という問い方のあいだにどう線を引くのか、という問題ではないか。という気がする。というか、前者の問い方は後者の問い方を必然的に呼び込んでしまうのだ。なぜなら、禁止とは一般に「なぜ禁止されているのか」という理由を問うことそのものの禁止も含むものだから。だから、この問題に向きあってしまったとき、わたしは既存の社会に対し破壊的に介入するという契機をいやおうなくみずからに引き込むことになる。
 このことについては、いまちょうど読んでいる江藤淳『閉された言語空間』が考える手がかりになりそうなので、日をあらためて書くつもり。