「能力」について

 ほら、オレって すごいでしょ? ね、ね、ね、ね!
 わたくしはそういうふうに、しきりとアッピールしたいタイプの にんげんです。だからこうやってブログなんて かいてる、ってところもある。じこけんじよく、というやつですね。そりゃもう、ひとに じまんしたくて しかたがない。
 いっぽうで、けっしてじぶんを大きくみせようとしない、そういうひともいます。いなかの年寄りに、そんなひとをけっこうみかけるように、おもいます。わたしの父も、そんなタイプのひとりです。父が、なにごとか じまん話をくちにするのを聞いたことがありません。それだけでなく、かれは、他人をほめる、ということも ほとんどしません。わたしは、父に なにか ほめられた、という おぼえがありません。
 このようなタイプのひとは、まわりからは「くちベタ」と解釈されることがおおいし、わたしもそうおもっていました。しかし、かれらが「じまんしない」また「他人をほめない」ということを、いわば がんこに つらぬいているのをみるにつけ、たんに「くちべた」というだけではない、なにかしらの意味がそこにあるんじゃないか、とも、おもうようになりました。
 おそらく、かれらが拒絶しようとしているのは、「能力というものが個人のうちにある」という かんがえなのでは ないでしょうか。「能力が個人のものである」という前提があって、はじめてわたしたちは、じぶんのことを じまんしたり、他人のことを ほめたりできるわけです。でも、そういうかんがえを しりぞけるならば、「じまんすること」も「ほめること」も、無意味になります。
 わたしは、かれらの がんこな意志に、アナーキズム無政府主義)をみます。あえて、「能力」を個人のうちにみないようにするという意志。これは、にんげんのなかに「えらいひと」をつくりださないよう、警戒する知恵なのかもしれません。
 「おかげさまです」という、いいかたにも、おなじような意志が はたらいているのを みてとることができるかもしれません。
 もっとも、わたしたちが「おかげさまです」というとき、それは たんなる きまりもんくの社交辞令にすぎないことも おおいでしょう。また、会社のジムショのかべなどに「『おかげさまです』のきもちをわすれずに!」などと かいた紙がはってあったりするのは、従業員を服従させるためのブルジョアのご都合主義にほかなりません。ブルジョアは、みずからへの「感謝」*1を従業員に強要するくせに、じぶんは従業員から しぼりとることしか かんがえていないのですから。
 しかし、「おかげさまです」というは、「個人のなかに能力がある」というみかたを しりぞける意志をもって くちにだされることばでも、ありうるとおもうのです。
 さて、わたしは前回の日記で、ピンポンや野球の例をつかって、プレイヤーどうしの たがいの関係(相互作用)のなかに、「能力」をみようと こころみました。そこで わたしが つかったコトバは、かならずしも適切でなかったとおもうので、いいかたをかえて、かきなおしてみます。
 ピンポンのプレイヤーのなかには、経験をたくさんつんだひともいれば、そうでないひともいます。その両者がいっしょにピンポンをたのしもうとするなら、経験のたくさんあるひとは、あまり経験のないひとの打ちやすいところに、ボールをかえしてやらなければなりません。
 こうすることによって、経験のおおいひとは、経験のすくないひとの「能力」をひきだしてやることができます。しかし、それだけではありません。このとき、ぎゃくに経験のすくないひとは、経験ゆたかなひとの「能力」をひきだしてやっている、ともいえるわけです。つまり、ここで経験のおおいプレイヤーは、あいてにとって打ちやすいように、アタマとカラダをつかってくふうする、という創造性をひきだしてもらっているわけです。こういうやりとりが、うまくいったとき、ピンポンはとてもたのしーですよ。おたがいにとってね。
 このようなやりとりにあっては、「能力」というものは、もはや「ひとりひとりの個人のうちがわに とじこめられたもの」であることをやめ、「ひと と ひとのあいだに わかちもたれたもの」になっております。また、このとき学校のセンセイとセイトのような、「えらいひと」と「えらくないひと」という権力関係は消えさっているはずです。あるいは、ぎゃくに、学校のような、また会社のような権力関係が消えさったときに、「能力」が「ひと と ひとのあいだに わかちもたれたもの」になるのだ、というべきなのかもしれません。
 いずれにせよ、これがアナーキズムです。


 さいごに、いじょうのことを かんがえるきっかけになった2つの文章(きっと、もっとほかにも「きっかけ」はあるはずですが)をあげさせていただきます。


さらば能力 - ish


 わたしは、このかたのかいている「圧倒的な神の存在」を、しりません。「しりません」という述語でいいあらわすことが、てきせつなのかどうか、も自信がもてないですが。
 ただ、「能力」というものをにんげんの「内側」に帰属させてかんがえることを拒否する、という意志につよい共感をいだきました。


 もうひとつの文章は、この本から引用するのはこれで3度めになりますが、デヴィッド・グレーバーさんの『アナーキズム人類学のための断章』(asin:4753102513)の、マルクス主義アナーキズムを対比させた一節です。
 アナーキストのそれぞれの学派は、いずれも組織原理や実践形態によって名づけられている。そこに、個人のなまえをつけるということを、アナーキストはしない(たとえば「クロポトキン主義」などと いわない)。これにたいして、マルクス主義はどうか。
 ということを、ろんじている かしょです。

 マルクス主義諸派には作者たちがいる。マルクス主義マルクスの頭脳から生じたように、レーニン主義があり、毛沢東主義トロツキズムグラムシ主義、アルチュセール主義……(国家元首の名から次第にフランスの大学教授の名へと移行していくことに注意されたし)。ピエール・ブルデューがかつて言ったように、学問社会とは学者たちが支配を目指すゲーム台であり、そこでは他の学者たちが自分の名を形容詞として使うようになった時、自らが勝利したと認知する。どのような文脈においても知識人たちが、好んで「偉大な理論家」の歴史を混ぜかえし続けるのは、そのようなゲームに勝つ可能性を保持するためなのである。たとえばフーコーの思想も、トロツキーのそれと同じように、ある一定の知的環境自体の生産物として、幾人もの人間を巻き込んだ終わりなき対話や議論から出現したものとして扱われることは決してない。常に一人の男性(あるいは稀に女性)の天才から生まれたと考えられている*2

*1:くされブルジョアどもは「おきゃくさまに感謝しましょう」などと、くちあたりのよいことを いいますけれど、そのじつ かれらがいいたいのは、「おれさまに感謝しろ、この従業員ども」とゆーことです。

*2:37-8ページ。