チカラのカゲン

 ふと おもったのですけど、わたしは30年あまり生きてきて、好敵手というのに であったことがありません。こんごも、そういうの、ありそうにないなあ。ライバルと きそいあって、おたがいをたかめあい、さいごに友情がめばえましたとさ、チャンチャン、みたいなの。こういう経験をせずに死んでゆくのは、しあわせなんでしょうか。それとも、ふしあわせなのでしょうか。
 学校にいっていたころ、わたしはピンポン・クラブとゆうのに入っていました。もちろん、チームのなかにも、あるいは他校のチームにも、じぶんとおなじぐらいの実力のひとがいるわけです。まけたら、くやしい。でも、じゃあ勝ったら とてもうれしいのか、というと、そうでもない。むしろ、ただ「ほっとする」とゆーかんじ。いずれにしても、たいして きもちよくも、たのしくもないなあ、と、わたしはおもっていたのですよ。
 わたしにとって たのしいのは、実力差のひらいた相手とやるときです。相手がつよければ、まぁがんばりますけど、まけたって べつにくやしくない。わたしはエヘラエヘラわらいながら、つよいあいてに本気でむかってゆくわけです。向上心のない わたくしにはちょうどよい湯かげんです。
 また、シロウト相手に てかげんしてするピンポンはおもしろいです。「てかげん」といっても、技術がいるんですよ。相手が打ちやすいところに かえしてやんないと、ラリーがつづきませんから。たまにふざけて本気のスマッシュを はなったりもしますけどね。ようするに、「てかげん」にはマジメにとりくみ、はんたいに「本気」をだすときはふざけることをわすれない、とゆーのが、わたしの性(しょう)にはあってるみたいです。
 こどものころ、教会の日曜学校というのに かよっていたことがあります。あさ、牧師せんせいのおせっきょうをきいたり、おいのりしたり、聖書をよんだり、席をまわってくるぼうしに100円玉をなげこんだりするんですけど、たのしいのは午後でした。日曜学校がおわってから、こどもたちどうしで野球や雪がっせんなどをするのでした。
 教会というのは、国家が運営する学校やそのクラブ活動、あるいは軍隊などのようなホモ・ソーシャルな組織とはちがうわけです。つまり、教会のこどもたちがあつまって野球などをしようとすれば、そこにはオトコノコもいればオンナノコもいる。12さいのこどももいれば、8さいのこどももいる。たまーに、きんじょに住むおじさんが、「おれもまぜてくれ」なんてゆって、参加することもありました。
 12さいのピッチャーが8さいのこどもにむかって、本気のはやいボールをなげたり、変化球のスライダーをなげたり(ビニールのやわらかいボールをつかうので、よくまがるのよね)したら、ゲームになりません。ゆっくりのボールを相手の打ちやすいところに なげてやらないとね。
 なんで、こんなむかしのおもいで話をしてるのかとゆーと、「相手にあわせて、チカラのカゲンを調節する」とゆうことにこそ、《にんげんの創造性》があるんじゃないかなあ、ということを、このところ よく かんがえているからです。
 まず、チカラをカゲンするとゆーことじたいに、じぶんのアタマやカラダをつかい、いろんなくふうをすることができます。また、そうやって、じぶんがチカラの出しかたをくふうすることで、あいてのチカラをひきだすことが できるかもしれません。こんなふうなかたちで「チカラをあわせる」ことができたら、あいても じぶんも たのしーじゃん。「わたしは みんなの あしでまといになってるんじゃないかしら?」なんて、だれもおもわないですみます。
 ところが、会社組織や学校のクラブ活動、軍隊のようなところでは、「あしでまとい」のにんげんをつくりだしてしまいます。そこでは「組織のあしをひっぱるヤツがわるい」ってことになってしまっています。そのひとのまわりが「てかげんしない(できない)こと」こそが、もんだいにされるべきなのにさ。
 こういった かんけいにおいては、「能力がある」とみなされているひとは、じっさいには、じぶんの能力のごくごくかぎられた一部しかつかっていない、とも、いえるでしょう。160キロのスピードボールをなげられるピッチャーは、8さいのこどもが打てそうなボールをなげる能力だってあるのかもしれません。なのに、はやいボールしか なげないのだとしたら、それはもったいないことだ。そうおもいませんか。
 そして、なんといっても会社のようなところでは、「あしでまとい」とされたひとは、もじどおり「無能者」におとしめられてしまう。なんとも ざんこくなことです。
 個人どうしが切磋琢磨し、組織どうしが生きのこりをかけて きそいあうような関係が、「生産的」なんでしょうか。「効率的」なのでしょうか。「ゆたかさの条件」なのでしょうか。
 「生産的」「効率的」「ゆたかさ」というときの、そのモノサシにゴマカシはないのでしょうか。ひとりひとりをみてゆけば、じぶんの能力の一部分しかつかわずにスピードボールばっかりなげてるピッチャーがいるいっぽうで、「そんな はやいボール打てないよ」と突っ立ってるバッターがいる。なのに、「社会ぜんたい」や「マクロ」のレベルでは、なんだか「たくさん生産されてる」って勘定されてたりするのだとしたら、計算するときの尺度がくるっている、ってことじゃないかしら。それとも、「ぜんたい」や「マクロ」のレベルで「ゆたかさ」をかたるって発想そのものがまちがってない? よくわかんないけど。
 わたしたち にんげんが「チカラをあわせる」っていったとき、それは足し算では、はかれないのではありませんか。足し算によってだした「ぜんたい」の合計ばかりみてると、ミクロな場で ひととひとのあいだに はたらいているチカラのカゲンの調節、というびみょーなことがらを みおとしてしまうんじゃないでしょうか。