うつくしきものを めでる こころ

 ひとつ まえの 記事で、対象との距離を とることが「うつくしさ」を 感じるための ひとつの条件なのだ、というようなことを かいた。対象と じぶんを きりはなすこと。対象と じぶんとの あいだに あるはずの《関係》を、わたしの 認識から けしさること。こうして わたし自身を 特権的な「みるもの」の位置に おくことで、わたしから きりはなされた対象に「うつくしさ」を みいだすことができる。
 このように わたしは ときおり 世界から みずからを ひきはなし、無関係を よそおうことで、やすらぎ(慰安)を えている。ゆうやけや まちのあかりは わたしに はたらきかけてこない。それらは、わたしに なにかを といただすことを せず、また わたしを みつめかえすことを しないかぎりで、うつくしい。ゆうやけには わたしを みるための めだまが ついていないようだし、まちのあかりには しゃべるための くちが みえない。だから、わたしは 安心して その うつくしさを めでることができる。そして、対象に うつくしさを みいだしているとき、わたしは だらしなく じぶんを なぐさめている。
 しかし いっぽうで、にんげんにむかって このような かまえを とるのは、なんか まずいよなあ、ということも かんがえる。
 たしか 何年か まえに だれかの ブログで よんだのだと おもうのだけれど、あるテレビドラマに こんな シーンが あったのだそうだ。おとこが 愛人である おんなの 服を ぬがせ――つまり ようするに ベッドシーンなわけだけど――つぶやく。


「きみは こんなに うつくしい からだを していたのか!」*1


 こと そこに およんで いうことが それかよ! うつくしさを 鑑賞してる ばあいじゃ ないだろー。
 でも この おとこの しょーもなさというのは、わたしにとって ひとごとでは ないのだった。わたしは たぶんに そういう しょーもなさを かかえた にんげんなので ございます。なにがあっても、じぶんだけは 気を動転させずに すむような、一方的に「みるもの」としての たちばに たてる 特権的な 位置は ないか、きょろきょろ さがしてしまう。そういうところが わたしには ある。
 性的な関心を ふくむにせよ ふくまないにせよ、ひとに ひかれるとか、ひとを すきになるとか、そういうのって、あいての「うつくしさ」を めでることとは ぜんぜん ちがう。「ひかれる」と 受け身の動詞で いわれるように、それは あいてとの 関係の 磁場のなかで、いやおうなく じぶんが 変容させられてしまうような 経験だ。
 にもかかわらず、わたしは あいてから じぶんを ひきはなしたうえで、いっぽうで あいてを 受け身の「みられる」対象に 位置づけ、たほうで じぶんを「みるもの」としての 位置に おくという、認識上の 操作を おこなおうと わるあがきをしたりする*2。そういう認識操作の結果 えられるのが、「うつくしい」という感覚なのかなあと おもったりする。いけすかないな。

*1:これ、めちゃくちゃに ものすごい セリフだと おもう(もちろん わるい意味で)。おしいことに わたしは そのドラマを みていない(うちに テレビが ないし)んだけど、いくつかの ブログなどで このセリフをめぐって「あまりの ひどさに わらった」とか「あきれた」みたいなことが かかれているのを よんだ おぼえがある。なので、当時 けっこう 話題には なったんだと おもうけど、いま検索してみると、そういうサイトが みつからないのです。なんでだろー? わたしの 記憶が どこかで ねじまがったのかしら。

*2:こういう かまえは、たぶん いろんな ところで いろんな ひとが いろんな ことばで 問題にしていますよね。たとえば、それは かつてエドワード・サイードが「オリエンタリズム」と よんで 問題にした かまえそのものに ほかならないと いえるのかもしれません。よく わかんないけど。