よっぱらった あたまで

 べろんべろん ってほどでもないけど、まあ いいぐあいに よっぱらってますわ。よっぱらうと ブログを かきたくなるのです。
 きょうは ゆうやけが きれいでした。どうして ゆうやけは うつくしいのでしょうか。ひとつ おもうのは、じぶんとは 関係が ないからだろうな、ということ。ゆうやけは わたしに おそいかかってくることもないし、また、手にとって たべることも できない。ずーーーーっと、とおくの 手の とどかないくらい むこうに あるものってのは、なにか うつくしい。
 こどものころに みた 風景で、なぜか なんども おもいだすものが あります。わたしは おかのうえに たって ゆうやけを ながめています。だんだんと ひが おちて、木々の あいだから みえる たてものには、ぽつぽつと あかりが ついてゆきます。あの たてものの ひとつひとつには、それぞれの 生活というやつが あるんだろうなあ、と おもいあたったとき、わたしは むしょうに さみしくなると どうじに、「ああ、なんて きれいなんだろう」と 感じたのでした。
 まちの あかりを そとがわから ながめている じぶんが いる。かぞえきれないほど おびただしく ひかってる あかりの ひとつひとつに、それぞれの くらしがあり、感情があり、にんげんがいる。わたしは その そとがわに あって、それらを ながめる 位置に いる。ながめる ものとしての わたしは、世界から はじきだされていて、じぶんの ながめている 世界に はいってゆくことが できない。にんげんたちが 愛しあったり いつくしみあったり どなりあったり けんかしあったりしている 世界が じぶんの むこうがわにあって、じぶんは 世界から へだてられた こちらがわに いる。
 そうやって ながめられた 世界は とても うつくしいもので、しかし その世界から へだてられている じぶんを なにか ものがなしく 感じたのでした。


 じぶんが 世界から 距離を とったとき、世界は うつくしく みえる。すぐ ちかくにあって じぶんに あからさまに 関係している 他人だとか 社会だとか、そういうものは うつくしくは みえない。じっさいのところ、世界のなかに じぶんと 関係していないものなど なにもないはずなのに。
 それは 空間的な 距離だけでなく、時間的な 距離についても いえることです。たとえば、5年後とか10年後とか30年後とか すぐ ちかくの 未来――30年なんて あっという間でしょうね――を うつくしく おもいうかべるなんて できない。マンションの 30年ローンなんて くむ感覚が、わたしには わからない。てゆうか、そのまえに アタマキン*1が ないんだけど。
 ともかく、10年後とか、30年後のことなんて かんがえたくもない。だから、ビール のんで、ロックンロール きいて よっぱらうのです。だから、おそらく じぶんが いきているうちに 実現されなそうもない 政府や国家のない世界を、資本のない世界を、わたしは ゆめみるのです。よっぱらった あたまで。
 でも なさけないことに、わたしは よっぱらわないと いきてゆけないんだな。

*1:「あ!・タマキン」ではなくって、「アタマ・キン」ですよー。おまちがえの なきように。