普遍性を めざす 運動としての 死刑反対

1.やすおか大臣の ふしぎな 発言

 きょうは、毎日新聞が 報じている 保岡興治(やすおか・おきはる)法務大臣の 死刑を めぐる 発言を とりあげます。この発言は りくつが ねじれていたり たがいに むじゅんしあっていたりして、どう りかいしたら よいのか、とまどって しまうものでは あります。しかし、ひじょうに きょうみぶかい点が あるようにも おもうのです。


保岡法相:「終身刑は日本文化になじまぬ」 - 毎日jp(毎日新聞)

 保岡興治法相は2日の初閣議後の記者会見で終身刑の創設について、「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と否定的な考えを示した。
 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。
 終身刑を巡っては、超党派の国会議員でつくる「量刑制度を考える超党派の会」が5月、死刑と無期懲役刑のギャップを埋める刑として導入を目指すことを確認している。
 保岡法相は00年7〜12月の第2次森内閣でも法相を務め、在任中の死刑執行は3人だった。【石川淳一


 たしかに ちょっと みたところでは めちゃくちゃにも みえますわね。
 まず、終身刑が「希望のない残酷な刑」だというのは、おそらく 受刑者にたいし「残酷」だという いみなのだと おもわれますが、だとすると なぜ 死刑が ゆるされるのでしょうか? 死刑というのは なにせ にんげんを しめころすわけですから、終身刑と おなじく、あるいは それ以上に「残酷な刑」とも いえるでしょう。やすおか大臣は「潔く死をもって償うこと」というふうに、あたかも 死刑とは《死刑囚が みずからの 手で いのちを たつこと》であるかのような いいかたを しています。しかし、死刑というのは《国家が 死刑囚を ころすこと》でしょう。そのいみで、それは 囚人が「希望」を いだくことを ゆるさない、という 刑罰の はずです。そういうわけで、大臣が 終身刑を 否定するのに もちだしている 論理が、同時に 死刑制度を 否定する 論理にも なりかねない。これが このたびの 法務大臣の 発言の ふしぎさの ひとつめです。
 もうひとつ、やすおか大臣の 発言で とまどってしまうのは、かれが 両立しない ふたつの たちばに 身を おいているように おもわれることです。
 かれは 終身刑を あらたに おくことに たいして、いっぽうでは「日本文化になじまない」という理由で 反対しています。しかし、もういっぽうで かれは「世界的に一般的でない」という理由でも 終身刑に 反対しています。

2.反動として「日本文化」を かたる

 こうした ふしぎな 発言を どう よみといたら よいのでしょうか? その かぎは「日本文化」という ことばに あるように おもいます。
 やすおかさんに かぎらず、ひとが 政治的な 場で「日本文化」を かたるとき、そこで かれ・かのじょが「なにを いいたいのか?」は はっきりしています。ようするに「われわれ にほんじんは 特殊なのだ。だから、われわれは おまえら ガイジンの いうことに みみを かす つもりなんか ない!」と いいたいのです*1
 やすおか大臣の ことばに そくして かんがえてゆきましょう。
 さきに みたとおり、かれは「日本文化になじまない」というものと、「世界的に一般的でない」というものと、ふたつの 理由で 終身刑に 反対していました。これは じつに きみょうなことでは ないでしょうか?
 もし、大臣が「[終身刑は]日本文化になじまない」という論拠に じゅうぶんな 自信を もっているのだとすれば、それが「世界的に一般的」かどうか なんて そもそも もんだいに ならないはずです。そんなことを わざわざ いう ひつようが ありません。みずからを「特殊」の 位置に おく ひとが「世界」の「一般的」な 動向を きにするなんて おかしな はなしです。「一般的」な 動向が どうであろうと、「われわれ にほんじんは 特殊だ!」と いいはれば よいのですから。
 はんたいに、大臣が「[終身刑は]世界的に一般的でない」という根拠のほうに 自信を もっていた ばあいも かんがえてみましょう。この ばあい、なおさら「日本文化」などというものを もちだす ひつようが ありません。だって、かれは いわば「より 普遍的な」たちばに たっていると 自認しているのですから。「日本文化」の 特殊さを わざわざ いう 理由が ないのです。
 では なぜ かれは どうじに ならびたつとは おもえない ふたつの たちばを いったり きたり するのでしょうか? ここから さきに のべるのは わたしなりの よみとき(解釈)です。あたっているかどうかは わかりません。
 おそらく かれは「世界」の おおくの くにが 死刑制度を とりやめたり、あるいは 死刑の 執行を とめたりしている、という動向を きにしているのでは ないでしょうか?
 むろん、大臣が「一般的」うんぬんと いったのは、《死刑制度を とりやめること》についてではなく、《終身刑を あらたに おくこと》についてでした。しかし、終身刑は いまの にほんにおいては 死刑に かわるものとして 提案されているわけですから、大臣の あたまの なかでも《死刑制度を とりやめること》は《終身刑を あらたに おくこと》と ひとまとまり・ひとつづきの ことがらとして かんがえられているはずです。だから、「[終身刑は]世界的には一般的でない」という 発言は、死刑を とりやめることが「世界的」な ながれに なっていることへの 警戒心の あらわれと みることが できるような きがします。
 こんごも 死刑を つづけようとする 日本政府は、国内世論は べつとして、「世界的」には しだいに「特殊」の たちばに おいつめられつつあるわけです。そのように 認識しているのであれば、法務大臣としては「特殊」の たちばから ぬけでて、「より 普遍的な」論拠を 手にしたいという 欲望を もつのは ふしぎで ありません。もし、日本政府が 死刑を つづける 根拠として つごうの よい「世界的に一般的」な 状況が あったならば、かれは それに 言及し 利用しようと せずには いられないでしょう。というのも、「われわれ」の「特殊」な「日本文化」を 根拠に するよりも、できることなら、「世界的」で「一般的」な 動向が じぶんの 主張や 意思に 一致しているということを のべたほうが、説得力を 手にしやすいのですから。
 ところが「世界的」な 動向は、やすおか大臣が のぞむのとは 反対の ほう、つまりは 死刑を なくしていく ほうに むかっています。とすれば、かれは、「特殊」な「日本文化」を 共有する「われわれ日本国民」という 空想の なかに にげこむしか ないわけです。
 「われわれには おまえたちの こえが とどかない。『死刑を やめろ』という おまえたちの ことばは われわれには つうじない。なぜなら、われわれの 文化は おまえたちの 文化とは 本質的に ちがうのだから」というわけです。
 ここには まず、「世界的」「一般的」な 動向に おされて、みずからの 主張が とおりそうにないという 認識が ある。そうした「世界的」「一般的」な 動向にたいする 反動として、「日本文化」の「特殊さ」が かたられるのでしょう。

3.普遍性を めざすこと

 さて、ながい まえおきでしたが、ここからが 本題です。ここまでの わたしの かきかただと、「やすおか法務大臣を はじめとする 日本政府がわの ひとたちが、『世界的』な ながれに のった 死刑反対派に いじめられている。かわいそうだ」という はなしにも なりかねません。わたしは 死刑反対派なので、そんなことを いいたいのでは ありません。
 わたしが これから いおうとするのは、こういうことです。すなわち、死刑を とりやめようという ながれが こんにち ひろがっているのは「たまたま」ではなく、理由の あることではないのか、ということ。死刑を やめようという 思想と 運動の つよみは、それが《普遍性を めざす》意志に 方向づけられている点に あるのではないか、ということです。
 まず、《普遍性を めざす》とは どういうことなのか、せつめいします。
 たとえば、わたしが さべつを ひはんしたと します。「おまえの やっていることは さべつだ!」と。このように わたしが 他人を「さべつ」の 名のもとに ひはんした しゅんかんに、わたしもまた「さべつは ゆるされない」という 規範に しばられることに なります。つまり、他人の おこなう さべつを もんだいにする以上、わたし自身が 他人から「おまえの やっていることこそ さべつだ!」という ひはんを うけたとき、これを 無視するわけには ゆかなくなる、ということです。
 また、さべつとは ひとりの にんげんの こころや おこないの もんだいであるだけでは ありません。さべつは いまの 社会の なりたちと ふかく むすびついています。そのいみで、わたしは さべつの なかで くらしているのだ、と いえます。そうである以上、わたしが さべつを もんだいにするならば、「この社会で おきている さべつを みすごしては ならない」という 責任を おうことに なります。もし、みてみないふりを するならば、わたしは そのことに うしろめたさと はずかしさを 感じないわけには ゆかなくなるはずです。
 こうして「さべつを なくそう」という 思想と 運動は あともどりの きかないものに なります。「まぁテキトーなところで きりあげて おきましょう。あとは しらないよ」と お茶を にごすわけには ゆかなく なるのです。「ゆるされる さべつ」と「ゆるされない さべつ」という くべつは、もはや いみを もちません。わたしが そのような くべつを もちだそうとするならば、さべつされた ひとは ただちに わたしを せめるでしょう。「おまえは さべつに 反対しているのでは なかったのか?」と。そうした ひはんに ひらかれてあろうとすること。これが「普遍性を めざす」ということです*2

4.普遍性を めざす 運動としての 死刑反対

 わたしたちの*3死刑反対の 主張も この いみでの 普遍性を めざします。
 わたしたちが「死刑を やめましょう」と 主張する 理由は、とっても かんたんなものです。「死刑には 犯罪を おさえる(抑止する)ちからが ないから」では ありません。「つみを おかしていない ひとが まちがって 死刑に される おそれが あるから」でも ありません。なるほど、そういったことが 死刑に 賛成する ひととの*4 ぎろんにおいて「論点・争点」になることは あるでしょう。しかし、「論点」や「争点」なんてものは どちらかといえば くだらないものなのです。わたしたちが 死刑に 反対するのは 「にんげんを ころしては ならない」と かんがえるからに ほかなりません。それ以外に 理由なんて ありません。
 ところで、「にんげんを ころしては ならない」と かんがえるのは わたしたち 死刑反対派だけでは ないようです。死刑に 賛成する ひとも、わたしたちと おなじように「にんげんを ころしては ならない」と かんがえているに ちがいありません。というのも、こう かんがえる ひとでないと 死刑には 賛成できないはずだからです。死刑とは にんげんを ころした ひとを 罰する 刑だからです。つまり、かれらが いうのは「にんげんを ころすのは わるいことなのだから、そうした おこないを した ひとは 罰を うけなければならない」ということです。
 したがって、死刑を ささえる ひとたちは、ひとつの むじゅんを かかえこむことに なります。かれらは「にんげんを ころしては ならない」という 理由で 死刑に 賛成するにもかかわらず、「にんげんを ころす」死刑に みずからの 手を かすことに なるからです。かれらは つぎのような かたりかたを せざるをえなく なるのです。「にんげんを ころしては ならない。ただし、にんげんを ころした にんげんを ころすのは よいのだ」と。
 これに たいし、普遍性を めざす わたしたち 死刑反対派は といかけます。「あなたは ひとごろしに 反対していたのでは なかったのか? 死刑によって いま あなたが ころそうとしている 囚人もまた にんげんでは ないのか?」と。
 こうした わたしたちの といかけに たいする 死刑賛成派の こたえかたには、いくつかの 型が ありうるように おもいます。
 ひとつは「やつらは にんげんでない」という こたえかたです。こうして テレビや しんぶんは「ひとごろしを おかした ものが いかに あくまのような やつなのか」を えがきだそうと やっきになります。そのためには、ころされた 被害者が「ふつうの 善良な ひと」であったことを ぜひとも 強調しなければ ならなくなるでしょう。ころされた「ふつうの 善良な ひと」と てらしあわせることによってこそ、ころした 加害者が どんなに「あくまのような やつ」なのか ということを、いっそう あざやかに えがきだすことが できるのですから。また、ころされた ひとが「ふつうの 善良な ひと」であることを しめすためには、その ひとが「かぞくや なかまたちから したわれていた」ということを 強調する ひつようも でてくるでしょう。こうして、「やつらは にんげんではない。あくまだ」と いうためには、どうしたって ころされた 被害者ばかりでなく、その かぞくや 学校の 同級生たち、職場の なかまたちなどを 動員せざるを えなくなるのです。
 もうひとつの かんがえられる こたえかた。こいつは、わたしたち 死刑反対派にとって なかなか やっかいだろう、と おもいます。その こたえかたとは つぎのような ものです。
「ひとを ころすのは わるいことだ。そして、わたしが 死刑によって ころそうとしている 囚人もまた きみの いうとおり にんげんだ。だから、死刑は わるいことである。しかし、わたしは あえて その よごれしごとを ひきうけよう。」
 こうした りくつの やっかいさは、hokusyuさんが 指摘しています(というか、わたしは それを 参照しながら いま こうして かいているわけです)。まだ、よんでいない かたは、ぜひ およみください。


自由な意思と主体の分離 - 過ぎ去ろうとしない過去


 ただ、やすおか法務大臣は、前任者の はとやまさんと おなじく、そこまでの 覚悟のない チキンやろう*5にも みえます。かれは このように いってました。「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と。
 この くだりが 国家による ひとごろしに ほかならない 死刑を、あたかも《死刑囚が みずからの 手で いのちを たつこと》であるかのように よみかえている点は、さいしょに 指摘しました。さらに、かれが ここで「多くの国民が支持している」という いいかたを している点にも ちゅうもくしましょう。
 やすおかさんが なにから めを そむけたがっているのか、あきらかでしょう。死刑においては 国家が にんげんを ころすのだということ。そして、やすおかさん自身が その 責任者であること*6。かれは「死刑を 執行する」の 主語が だれなのか、みてみないふりを しているわけです。
 そこで かれは「多くの国民」が にほんの 死刑制度を ささえているのだ、と いうわけです。なるほど そのとおりですね。ぞくにいう「国民主権」や「民主主義」とは そういうことですものね。「多くの国民」の みなさん、どうしますか? 大臣は「きみたちが ころしているんだよ。おれは しらないもんね」と いってます。
 「あくま」を ころすのは かんたんでしょう。しかし、おそらく――これは わたしの 想像ですけど――法務大臣や 裁判官や 検察官を はじめとして 司法に ちょくせつ たずさわっているひとたちは、もっと さめた 認識を もっているのでは ないでしょうか? というのも、かれらは 死刑囚が「ふつうの」そして たいがいの にんげんが そうであるように、ときとして「善良な」にんげんでもあることを もくげきしてしまうでしょうから。かれらは「やつらは あくまだ」という ファンタジーを あたまから しんじるには あまりに なまなましい 現場に たちあってしまっているはずです。
 だとすると、かれらが「国民の支持」を あおぎ、「国民の司法参加」(裁判員制度のこと)を もとめたくなる きもちも わからなくは ありません。しかし、国民の「司法参加」が すすめば 国民もまた「やつらは にんげんではない」という ファンタジーを しんじこむのが むずかしくなるでしょう。すでに わたしたちは、「通り魔」の 青年が にんげんの すがたかたちを していることを、かれが インターネットに のこした ことばを つうじて、もくげきしてしまっています。
 死刑は いまの 社会の なりたちと ふかく むすびついています。そのいみで、わたしたち国民は 死刑の なかで くらしているのだ、と いえます。そのことが ますます はっきりと あばかれつつあるのが こんにちの 状況です。わたしたちが 状況から めを そらして うしろめたさや はずかしさを ごまかすのではなく*7、普遍性を めざすかぎり、もう あともどりは できません。死刑は いっこくも はやく とりやめなければ なりません。

*1:くじらを とることへの 国内外からの ひはんに たいし、「日本文化」を かたりはじめる ひとも、よく みかけますね。

*2:この「普遍性を めざす」という かんがえかたについては、以下の ぎろんに おおくを おっています。酒井直樹(さかい・なおき)『希望と憲法――日本国憲法の発話主体と応答』以文社、2008 asin:4753102602

*3:ここで、「わたし」ではなく「わたしたち」と いっているのは、この 文章を たまたま よんでくれている あなたへの よびかけを ふくんでいるからです。

*4:それにしても、「死刑制度存置派」「死刑制度存置論(者)」という よびかたは あまりに ふざけたものです。死刑に 賛成する ひとは、死刑の 制度と 執行を ささえている。つまり にんげんを ころすことに 積極的に 手を かしているのです。「存置」というのは「なにも しないで ほっとく」「そのままに しておく」という いみでしょう? でも、かれらは「なにも していない」のではなく、「している」のです。

*5:わたしの いう「チキンやろう」は、ひにくぬきの ほめことばです。

*6:さいしょに ひいた 毎日新聞の 記事によると、かれは すでに 森内閣法務大臣として 3にん ころしているそうですね。

*7:なんでも GHQによる にほん占領に 貢献した アメリカの 人類学者ルース・ベネディクトさんによると、にほんの 文化は「恥の文化」なんだそうですよ。おどろくべきことに!