にんげんって なんだろうね

 なんか さいきん いっぱい 文章を かいている。この ブログに のっけるのを みあわせたのも けっこう あるので、そういうのも あわせると すごい 分量に なりそう。
 かけば かくほど、「じぶんの いってることが どうも おかしいなあ」という ぎもんが つぎから つぎへと わいてきてしまう。
 文章を かくというのは、かんがえを 限定していくことだと おもうんだけど、そのさい けずりおとしてしまった ぶぶんというのが、あとから あとから あたまのなかに うかびあがってきて、ねむれなくなる。いいかげん ねぶそくなので、こんばんは もう ねたほうが いいんだろうけどさ。


 きのうは 「にんげんを ころしては ならない」ということを かいてたのだけど、その ばあいの 「にんげん」って いったい なんだろうか?
 「にんげん」なるものを 規定しようと するならば、とりあえず ふたつの やりかたが かんがえられると おもう。
 ひとつ。共通項によって くくること。「2ほんの あしで あるき、ことばを あやつり、社会を いとなむ 動物が にんげんです」とか。こういう かたりかたは 予断に もとづく きめつけなのであって、ひどく らんぼう(暴力的)だ。このように かたる かたりては、他者に ひらかれてあるのでは なく、じぶんの「にんげん」イメージに そぐわないものを あらかじめ 排除する かまえを とっている。
 もうひとつの、「にんげん」を 規定する やりかた。「わたしは ○○ではなく、にんげんだ」という ふうに、否定を とおして「にんげん」を 規定すること。「わたしは ねこではなく、にんげんです。あなたも ねこではなく、にんげんなのです。むこうを あるいている かのじょも ねこではなく、にんげんですね」。
 こういうのも いやだなあ。
 わたしは ねこを ながめてるのが すきなんだけど、いちいち「わたしは きみたち ねこと ちがって にんげんなのである」なんて かんがえてるようじゃ、いつまで たっても ねこと なかよく なれません。にんげんどうし にんげんだけで つるんでても しょうがないでしょ。そんなことでは、ねこたちや ゴリラたちや イルカたちから みはなされちゃうよ。蚊とか ゴキブリとかには、どっちかと いったら、みはなされたいものですけどね。
 これは じょうだんではなくって、このところ マジで かんがえてるんだけど、社会というものを「にんげんだけから なるもの」と かんがえるのって、つまんないし ごうまんじゃないかしら。さいきん、ゴリラの 研究を している ひとの ほんを よんだんだけど、その ひとが むれの リーダーの 男性*1から みとめられて なかまに いれてもらった経験を かいている くだりに、おもわず めがしらが あつくなっちゃってねえ。
 あらかじめ「にんげんとは こういうものだ」と きめつけたり、「にんげん」じゃないものと くべつした うえで「じぶんは にんげんなんだ」なんて 限定したりする ひつようは、ないのかもしれない。他者(というのは、もちろん いわゆる「ゴリラ」や いわゆる「ねこ」も ふくんでの はなしだけど)と 関係を つくっていくという いとなみに さきだって、「にんげん」なるものを きめてかかるのは まちがいなのかもしれない。

*1:ゴリラだから「オス」と いうのが ふつうでしょうけど、なんだか それは みくだしてるみたいで いやだなあ、と おもって。