じさつしゃを ころしているのは だれなのか?

 いま わたしが そうだと いうわけでは ないのですが、しんどい たちばに あるときというのは、いかりの きもちを なかなか もてないものだと おもいます。みくだされ、あしげにされ、「おまえなんかに 価値は ない」という いみのことを いわれ、くやしくて みじめで なきたくなるようなときでも、あたまのなかは じんと ひえたように まひしてしまって、いかりなど わいてこない。そんなふうなときが あるように おもいます。
 ただし、わたしが ここで いおうと しているのは、「いかりの やりばが ない」という 状況のことでは ありません。
 たしかに、「いかりの きもちが じぶんの なかに ふつふつと わいているのに、それを おもてに だすことが できない」ということも あります。たとえば、つよい たちばに ある ひとは いかりを おもてに だしやすいのに たいし、よわい たちばの ひとは じぶんの いかりを うちに とじこめてしまわざるを えないということは あるでしょう。いっぱんてきに、おやが まだ ちいさい こどもに じぶんの いかりを ぶつけたり、せんせいが せいとを どなりつけたりするのは、かんたんなことです。ぎゃくに、ちいさい こどもや せいとが、おやや せんせいに むかって いかりを ぶつけようとするなら、おそろしい しかえしを かくごしなければ なりません。こうして、よわい たちばに ある ひとは、いかりを じぶんの むねの うちに しまって おくことが おおくなるでしょう。
 もちろん、こういったことは、おとなと こどもの あいだの 関係において、あるいは おとなどうしや こどもどうしの 関係において、しばしば みられることであり、また 不当なことです。しかし、わたしが この ぶんしょうで とりあげようと しているのは、おそらく いま のべたことと かかわるところも あるはずなのですけれど、それとは すこし ちがうことがらについてです。
 わたしが ここで もんだいに したいのは、「じぶんの なかに すでに ある いかりの きもちを、おもてに だせない」(いかりの やりばが ない)というのと べつに、「じぶんが たにんから 不当に あつかわれているにもかかわらず、いかりの きもちを もつことすら できない」状況が、ありうるのだと いうことです。
 うまく ことばに する 自信が ないのですが、「じぶんの きもちを かんじとることが むずかしい」ということが、ときとして あるような きが します。あるいは、こう いいなおしたほうが よいかもしれません。すなわち「じぶんじしんの きもちを かんじとるために、わたしに 共感してくれる たにんが ひつような ばあいが あるのだ」と。
 よく いわれるのは、「けっきょくのところ、たにんの きもちを しることは できないのだ」ということです。たしかに、わたしは あなたの こころの なかを のぞきみることが できない。また、あなたと わたしが べつの にんげんである以上、あなたの かんじているそのままに わたしが けいけんすることは できない。だとすると、わたしが あなたに 共感しているつもりに なったとしても、わたしは あなたを かがみにして じぶんじしんの こころのなかを みているにすぎず、「たにんへの 共感」などというのは わたしの てまえかってな おもいこみでしかない。
 しかし、わたしに あなたの こころが みえないのだとしても、「わたしは わたしの こころの なかを みることが できる」と ほんとうに いえるのでしょうか? わたしは つねに わたしの きもちを 直接 かんじとることが できているのでしょうか?
 わたしたちは じぶんの きもちを どうにも もてあましてしまうとき、その きもち自体を 「なかったこと」に してしまうことが あるように おもいます。たとえば、ある ひとの ことが とても すきに なったのだけれど、その ひとには おっとと こどもが いて、わたしが わりこむ 余地は ないし、そうすべきでもない。そんなとき、わたしは 「すきだ」という じぶんの きもちを 「なかったこと」にしてしまうかも しれません。それどころか、その どうしようもない 「すき」という じぶんじしんの きもちを みないように、その ひとへの きもちを 「にくしみ」へと 転化させてしまうかも しれません。
 このような じぶんで じぶんを あざむく こころの はたらきは、自覚されることは まれですけれど、そうやって ほかならぬ じぶんの きもちを あざむことを わたしたちは ひんぱんに やってるのでは ないでしょうか?
 もし、わたしが じぶんの なかの 「すき」という きもちを、だれか ともだちに うちあけることが できて、その ともだちが 共感を しめしてくれることが あるならば、状況は ちがってくるかも しれません。けっきょくの ところ、わたしの きもちが かなわぬものでしか ないのだとしても、そのとき わたしは 「すき」という きもちを 「なかったこと」に するのでなく、じかんを かけながら なんとか じぶんの きもちと おりあいを つけることが できるかも しれません。
 「いかり」についても たぶん おなじことが いえると おもいます。かりに、じぶんが 不当に ふみつけられても、その あいてが あまりにも おおきくて つよく、しかも じぶんは ひとりぼっちで その あいてと むきあわなければ ならないとします。まず このとき、ふみつけられた ひとは いかりの きもちを 「おもてに だす」ことが むずかしいでしょう。そのように 「やりばの ない いかり」を むねの うちに しまっておくなら まだしも、ふみつけられた ひとは じぶんの きもちを かんじとるまえに、その きもちを 「なかったこと」に してしまうかも しれない。
 じぶんの なかの いかりの きもちと むきあうことは、ときとして しんどいことでも あります。なぜなら、いかりは じぶんを たたかいへと うながすからです。あいてに たいする いかりの きもちを みとめるならば、じぶんは その あいてと たたかわなければならない。じぶんが ひとりぼっちで、なおかつ あいてが つよかったら、とても たたかえないよ。そんなとき、あなたは じぶんの いかりを かんじとらずに、それを なにか べつの きもちに すりかえてしまうかも しれない。
 だから、わたしは あなたに すくなくとも こう つたえなければ ならなかった。「あなたの うけた しうちは 不当なものであり、いかるに あたいするものである」と。しかし、わたしは そうしなかった。たまたま その 機会を のがしてしまったから。いや、機会が あっても わたしは それを つたえることを ためらったかも しれない。それを あなたに くちに する以上、わたしは あなたを ふみつけた あいてと たたかう じぶんの せきにんを 自覚せざるをえなく なるから。


正社員削減「このままだと自殺者」 日本IBM労組(asahi.com)

 「このままだと自殺者が出るかもしれない」。約1千人規模で正社員の人員削減を進めている日本IBMの労組側が3日、東京都内で記者会見し、「10月下旬から始まった退職勧奨が徐々に強まり、48時間以内に退職を選ばないと解雇すると迫られる社員もいる。法的手続きも検討したい」と訴えた。労組には10月下旬以降、退職勧奨を巡る相談が約80件寄せられている。
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 同支部には、社員9人から「上司に48時間以内に退職届を出さなければ解雇すると言われた」との相談が寄せられ、その後、全員が退職を決めた。退職勧奨された社員の妻から「このままでは夫が自殺するかもしれない。退職強要をやめさせてほしい」という相談も来ている。


 「このままだと自殺者が出るかもしれない」という 状況は、もちろん 第1に 日本IBMに せきにんが あります。不幸にも じさつしゃが でた ばあい、「ころしたのは 日本IBMの 経営陣」ということに なります。
 しかし、クビを きられた ひとの なかまたちが、クビを きった かいしゃへの いかりを 共有し、はっきりと かいしゃに たいして 敵対することを 宣言することが できたとしたなら、どうでしょう? もし、それが できているならば、「自殺者が出るかもしれない」ことを しんぱいする ひつようは なかったはずなのです。
 あなたが はものを むけるべきなのは、あなたじしんの からだと いのちではなく、かいしゃであること。あなたには いかりを ばくはつさせる 正当な りゆうが あること。そして、わたしは あなたの みかたに ついて あいつらと たたかう かくごが あること。あなたに そう つたえることが できるならば。
 むろん、これは 日本IBM労組だけではなく、わたしの もんだいとして かいているのです。