「燃える!お兄さん」事件のことなど(2)

 4がつ 9にちの きじの つづきです。


 まえの きじでは、20ねんまえの 「燃える!お兄さん」事件に ふれながら、《用務員の しごとが ひくく みられること》と 《教師が えらそうに していられること》は ひとつらなりのことであること、したがって、前者を もんだいにするならば、後者をも もんだいに しなければならない、と いうようなことを のべました。
 そのうえで、さいごに こう かきました。

 だから、わたしとしては、ひくく みられてきた 用務員という 職業の 地位向上を はかることは、教師を その 地位からひきずりおろすことを あわせて おこなわなければ、かなわないのではないかと おもうのです。……
 どうして 教師が えらそうに してられるのか、まず そこが もんだいです。そこから かんがえて みたいと おもいます。


 わたしには、「教師という しごとが そんざいしている」という まさに そのことこそが もんだいであるように かんじられます。というか、「教師だけが 教師の しごとを 独占していること」に おかしさを かんじると いったほうが よいかもしれません。
 まえに この ブログで 「学校という空間」をこそ もんだいに しようという きじを かいたことが あります。わたしは、大分県の 教員採用試験での 不正が 報じられていることに ふれ、つぎのように かきました。

……試験なんか やるから、「不正」を やるひとが でてくるのです。だから、いっそのこと教員採用試験なんて やめちゃったら いいのではないか、というようなことを かんがえます。なりたい ひとが 教師になる。ひとがあまるようだったら くじびきで えらぶ。教育に たずさわるのに、とくべつな「適性」だとか「能力」だとかが もとめられるという 社会のありようは、おかしい。まあ、その はなしは こんど また かきます。


 教師なんて だれでも できる しごとです。ふたりの にんげんが であったとき、いっぽうが たほうから なにごとかを まなべないということが あるでしょうか? あるいは いっぽうが たほうに おしえられる なにごとも もたないなどということが あるでしょうか?
 「おしえる」、あるいは 「まなぶ」ということは、なんら とくべつな ことでは ありません。ひとと ひとが かかわる あらゆる ばめんにおいて、おしえたり まなんだりという いとなみが あるはずです。だとすると、なぜ 「教師」だけが 「教師」と よばれるのでしょうか? なぜ 用務員は 「教師」と よばれないのでしょうか?*1
 まえの きじでも リンクした 自治労学校用務員部会の つくっている サイトに、「道徳の時間」という ページが あります。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~youmuinn/07doutoku.html


 この ページでは、ちゅうがくの 道徳の じゅぎょうで 教材として つかわれている ぶんしょうが しょうかいされています。用務員の かわさきさんと ちゅうがくせいたちの 交流を えがいた、ものがたり じたての ぶんしょうです。
 ざっと つぎのような ストーリーです。
 せいとたちが やすみじかんに ふざけていて、 きょうしつの ドアを あやまって こわしてしまう。せいとたちは かわさきさんの しどうを うけながら、こわした ドアを なおす さぎょうを てつだう。そうやって しごとを ともにすることを つうじて、せいとは かわさきさんから ドアを なおす やりかたや、「がっこうという ばしょの かんきょうを ととのえ かんりしていく」という しごとの だいじさを まなんでゆく。
 だいたい そんな はなしです。
 わたしが ぎもんに おもうのは、「こうした 交流を へて なお、なぜ かわさきさんは せいとたちに 『かわさき せんせい』と よばれずに、『かわさき さん』と よばれるのか?」って ことです。なぜ すうがくや えいごや こくごの 教師は 「せんせい」で、用務員は 「かわさき さん」なのでしょうか? すうがくや えいごや こくごの 教師が とくべつじゃないこと、かれらが とりたてて 「えらい」なんてことは ないことが わかったのだろうから、もう 「せんせい」なんて よびかたは やめて、みんな「さん」づけで いいじゃん。


 教師が けんいを もつことが できると すれば、それは 教師 いがいの にんげんの けんいを うばいとり、それを 無力化することによるものです。がっこう きょういくの 制度的な ちからの みなもとは、がっこう いがいの ばしょで おこなわれる きょういくを おとしめ、そのことによって がっこう きょういくだけが 「きょういく」を なのる 資格を 独占してきたことに あります*2
 がっこうに かよい はじめた こが じぶんの おやや そふぼを みくだしたり、あるいは はずかしく おもったりする。そういう 感情は、たぶん がっこう きょういくを うけた ひとなら だれでも おおかれ すくなかれ おぼえのあるものなのでは ないでしょうか。いや、というか、わたし じしんが そういう 感情と むえんでは ないわけです。
 それと おなじような 構造が 職業さべつの ねっこに あるのだろうと おもいます。だから、がっこうや そこで 「きょういく」される 知識体系が、どのようにして けんいを みずからの みに まとうことができているのか、その しくみを もんだいに していく ひつようが あると おもいます。
 こんどは そこらへんを かんがえてみたいと おもいます。
(つづく)

*1:もっと いえば、「なぜ 生徒は 『教師』と よばれないのでしょうか?」ということも とうてみたいのですが、はなしの おさまりが つかなくなりそうなので、こんかいは やめときます。

*2:ねんの ために つけくわえて おきますと、こんにちでは 塾などの みんかん きょういく さんぎょうも、がっこう きょういく 制度の うちがわに、その ふかけつの 要素として くみこまれております。きょういく さんぎょうは、ここで いう 「がっこう きょういく」の そとがわに あるわけでは ありません。