かんじを つかわないと ひょうげん できない こと

 ひとつ まえの きじに いただいた id:tikani_nemuru_M さんの コメントへの おへんじです。おへんじが ちょっと ながく なったので、あらたに エントリを たてる かたちで、こちらに かきます。


tikani_nemuru_M さんの コメント

やねごんの基本的な立ち位置について異議をさしはさむつもりはない。
と、前置きしたうえで


話し言葉と書き言葉は異なると考える。
例えば、数式は一種の記述言語であといえる。
そして、僕は数式という記述言語を上手に読み書きすることはできない。数式という記述言語を十全に読み書きできない人は、漢字が苦手な人よりはるかに多いだろう。しかし、ある種の記述をするためには、数式という記述言語は必要不可欠であることはわかる。数式という記述言語を扱えるようになるためのハードルは高いが、それゆえに数式という記述言語は有用であるともいえるわけだ。
伝えるべき内容と伝達する形式にはかかわりがあるのであって、漢字を用いた文でなければ伝えられない内容もあると僕は考える。よって、やねごんの論旨には部分的には同意できない。


 すうしきに よって こそ きじゅつ できる ことがらが ある というのは、その とおりだと おもいました。すうしきで きじゅつされた ことがらを、たとえば にほんごで あます ところ なく きじゅつ できるとは おもえません ものね。
 おなじように、コミックには コミックの、はいくには はいくの、さんぶん(散文)には さんぶんの、おんがくには おんがくの、それぞれの 《けいしき》に おうじて でんたつ しうる 《ないよう》の かのうせいに ちがいは あるのでしょう。


 ただ、ことなる 《げんご》どうしの、さらに いえば おなじ げんごに おける ことなる《ひょうき》どうしの あいだで、おんなじ ことが どこまで いえるか、となると、やや びみょうな きも します。
 まず、ことなる 《げんご》どうしで どうか、という こと。
 たとえば、ぺきんご(北京語)で でんたつ された 《ないよう》を、にほんごに おきかえる ことは、さきの れいの ばあいより ひかくてき かんたんでしょう。
 さらに、かんぶんの よみくだしや、きんだい いこうに おうべいの げんごの ぶんけんの ほんやくが、「にほんご」そのものを つくりかえる ことで あったように、ほんやくは、ほんやく もと(翻訳元)の げんごが ほんやく さき(翻訳先)の げんごに はたらきかけて(干渉して) へんかを もたらす ことでも あります。
 このように げんご という ものを、「こていてきな もの」と とらえるのでは なく、ゆうづうの きく 「へんかしうる もの」と みるならば、ぺきんご という 《けいしき》で ひょうげん しうる 《ないよう》は、きほんてきに にほんごという 《けいしき》でも――「十全」と いえるか どうか わかりませんが――ひょうげん できるのでは ないかと おもえます。
 もちろん、それぞれの げんごの つかいてが おかれた ぶんかてき しゃかいてきな はいけいの ちがいに よって しょうじる ほんやく ふかのうせいは あるでしょう。しかし、それは おなじ げんご(にほんごなら にほんご)の つかいて どうしでも いえる ことで あって、げんごの 《けいしき》の もんだいでは ない。


 さらに これが 《ひょうき》と なると、その 《けいしき》に よる でんたつ しうる 《ないよう》の ちがいは、「ない」、あるいは あったと しても 「ごく わずか」である、と いえないでしょうか?
 たとえば、ひらがなで 《ひょうき》された ぶんしょうは、カタカナや ローマじ、あるいは てんじ(点字)の 《ひょうき》に うつし かえても、ほんしつてきに なにも かわらないでしょう。


 では、「かんじ かな まじり → かながき」では どうか?
 この ばあい、まず もんだいに なるのは、どうおん いぎごだと おもいます。そして、もう ひとつの もんだいは、かんご(漢語)には 「ききなれない」 という いみで むずかしい ことばが たくさん あること。
 この 2てんを のぞけば、「かんじ かな まじり→かながき」という 《ひょうき》の うつしかえは、「ひらがな → カタカナ」という うつしかえと ちがいが ないのでは ないかと かんがえて います。
 かんじ かな まじりで あろうと、かながきで あろうと、ぶんぽうてきに おなじ 「にほんご」という げんごの わくの なかでの 《ひょうき》の ちがいに すぎません。この てんでは、《けいしき》によって きじゅつ できる 《ないよう》に ちがいが しょうじる という ことは ありません。
 したがって、やはり ごい(語彙) レベルでの 2つの もんだいを どうするか という てんに、もんだいは しぼられそうです。ひとつには、どうおん いぎごの おおさ。もうひとつは かんごには ききなれない ことばが おおい という こと。
 2つめの もんだいに ついては、ひとつ まえの きじに id:y_arim さんから いただいた コメントの へんじで、げんじてんでの わたしの かんがえかたを かきました。y_arimさんの コメントと あわせて いんようします。


y_arim さんの コメント

基本的にこの考え方に賛成なのだけれども、以前から気になっているのは「ただかな書きにするだけでよいのか?」という点。
やねごんさんの文章には数多くの「元・漢語」が用いられているのだけれども、漢字と漢語は不即不離の関係にあって、漢字を経由せずして後者を理解することが可能なのだろうかというのがとても気になる。もしかすると、ただかなで書いただけの文章というのは結局、元文章を読みこなせる程度には頭のいい(嫌な言い方だけども)ひと向けのものでしかなく、ある程度〜あるいは全面的に漢語を「開く」ことが必要なのかもしれない。
日本語検定の初級向け教則本などはほぼかな書き状態だけれども、あまり込み入った漢語は用いていなかったように記憶している。あと、たとえばラテン語俗ラテン語を経てイタリア語・フランス語・スペイン語ルーマニア語などへ分化していく過程では、高度なラテン語はもはや民衆が理解できなくなっており、より易しい単語を組み合わせてそれに近い表現を作り出すということが起こっている。より実践的には、そういうことが必要なのかもしれない。
>わかりにくい どうおん いぎごが おおすぎるのが もんだいだと いうなら、あたらしい ことばを すこしずつ つくって いけば よい だけの はなし
というのが、それにあたるようにも思われるけれども。


わたしの おへんじ*1

id:y_arim さん。
 「漢字(かんじ)と漢語(かんご)は不即不離(ふそくふり)の関係(かんけい)」という ことは、じつは あまり いえないのでは ないかと かんがえて います。
 ことばを みんしゅかして ゆこうとするとき、とくに もんだいに なるのは、きんだい いこうに えいご・どいつご・ふらんすご などから ほんやくして つくられた 漢語(かんご)だとおもいます。それらの 漢語(かんご)の おおくは、漢字(かんじ)を けいゆすることが かならずしも りかいを かんたんに する ことにつながらないし、それどころか りかいの さまたげに なる ものが おおいのでは ないでしょうか?
 おもいつく ままに あげてみると、「社会(しゃかい)」「概念(がいねん)」「表象(ひょうしょう)」「観念(かんねん)」「経由(けいゆ)」「着服(ちゃくふく)」「相対性(そうたいせい)」「現実(げんじつ)」。どれも 訳語(やくご)を つくった ひとの くふうと くろうの あとがかいま みえるようですけれど、漢字(かんじ)から 漢語(かんご)の いみを るいすい(類推) するのは むずかしい ように おもいます。この うち「社会(しゃかい)」「着服(ちゃくふく)」「現実(げんじつ)」と いった はなし ことばとして あるていど ていちゃく(定着)したことばは、「しゃかい」「ちゃくふく」「げんじつ」と かながき しても、とくに さしつかえは ないでしょう。
 いっぽう、「表象(ひょうしょう)」「相対性(そうたいせい)」といった かならずしも ていちゃく して いない ことばは、かながき しようが かんじで かこうが おなじように わかりにくいのではないでしょうか(「ていちゃく した」と いえるか どうかは、よみてにも よるわけで、わたしは ふよういに たとえば「ふへんてき(普遍的)」といった ことばを かながきして しまう ことが あるのですけどね)。
 だから、もんだいは、こういった翻訳語(ほんやくご)の ばあい、漢語(かんご)を かながきする ことに あると いうより、ききなれない、あるいは よみなれない ことばで あるが ゆえに りかいがむずかしい という ところに あるのだと かんがえて います。
 だから、まず だい1に かのうな かぎり そういった ことばを もっとかんたんな ことばで いいあらわす ことが ひつよう。
 ただ、いっぽうで そうやった つかえる ごい(語彙)を せいげん することで、ひょうげんの はばが せまく なって しまうのは さけたいとも かんがえて います。だから、ひつようならば あまり ていちゃく していない 元・漢語(もと・かんご)も つかいつつ、ぶんみゃくで その いみが りかい できるよう、ぶんしょうの かきかたを くふう する こともひつようかな、と。たしょう ききなれない・よみなれてない ことばが あっても、「つまり……」「というのは……」とか やって ていねいに おなじ ないようを はんぷく して かく ことで、りかいの しやすさと なんかい(難解)な ことばを すてない ことは、りょうりつできるんじゃないかと おもいます。


 tikani_nemuru_M さんの 「漢字を用いた文でなければ伝えられない内容もある」という してきは、ごい(語彙)の レベルで、やはり いまの じてんでは 「ただしい」と みとめざるを えないと おもいます。
 ただ、y_arim さんへの おへんじで のべたような じっせんを こんご つみかさねて いく なかで、これを のりこえて いけるのでは ないか、とも おもうのです。ことば という ものを、「こていてきな もの」と とらえるのでは なく、ゆうづうの きく 「へんかしうる もの」と みるならば。
 その いみで、tikani_nemuru_M さんからは、しゅくだいを いただいたと かんがえて おります

*1:ごじ だつじを なおし、かいぎょう(改行)を ふやしました。また、かんじには よみがなを そえました。