ぎじゅつと かんせい

 がっきを やってて よかったなと おもう ことの ひとつは、おとに たいする じぶんの うけとりかた かんじかたが へんかして いくのを はっきりと けいけんできる ことかなあと おもう。
 すきな きょくや えんそうを がっきを つかって まねて みる。スピーカーから きこえる おとを ひとつ ひとつ ひろって、ギターや ベースで さいげんしようと して みる。まあ、もちろん おもいどおりに なんか ならない。じぶんの からだも たにんも おもいどおりに ならない ものだ。それで フラストレーションが たまる ことも ある。
 でも、そうやって みみを すませて てを うごかして いる うちに、なんじゅっかいと くりかえし きいてる おなじ CDの おんげんが、だんだんと すこしずつ ちがった ものに きこえて くる。ぶつりてきに なって いる おとは おんなじなのに、じぶん じしんの みみが ちがった おとの うけとりかたを する ように なって いくのが、はっきりと わかる。きこえて いなかった おとが きこえる ように なったり、あるいは アンサンブルの バランスが いままでとは ずれて、あたらしい かたちで ぜんたいの イメージが くみたてられて いくのを かんじたり。




 もっとも、わざわざ がっきなんか やらなくても、くりかえし なんじゅっかいも なんびゃっかいも おなじ きょくを きいて いる うちに、かんじかた きこえかたが へんかして いく という ことは あるのだろう。
 でも、おとに たいして ただ うけみに なるのでは なく、てを うごかして、じぶんの ほうから おとに はたらき かけようと する ことで、じぶん じしんの かんじかたを うまれかわらせて いく。いわば、「ぎじゅつが かんせい(感性)を かえて ゆく」こと。そういう ことが 「たいせつだ」と せっきょうする つもりは ないけれど、そういうのが わたしは すきだ。




 ぶんしょうを かくのも、わたしに とって にた ところが ある。
 すくなくとも この ブログに かいて きた ぶんしょうに ついて、わたしは なによりも まず じぶんの ために かいて きた。たにんに むかって なにかを うったえたいとか、しゅちょう したいとか、せっとく したいとか、そういう よくぼうが じぶんに ないと いえば うそに なるけども、そうゆうのは いちばん だいじな ことでは ない。
 たしかに、ぶんしょうを かく ことは、たにんと かかわる ことだし、たにんの そんざい なしには、わたしは ひとことだって ことばを かく ことは できないかも しれない。
 けれども、じぶんが ひとりぼっちだ という じかく なしに なにごとかを かく ことは、わたしには むずかしいし、やっても いみが ない ことだとも おもう。




 ことばを ひとりで いじくり まわす。ことばは コントロールできない ものだけど、コントロールしようと そうさする。そうやってる うちに、ものの みえかた、せかいに たいする かいしゃく、あるいは かこに けいけん した じじつに たいする じぶん じしんの うけとりかたが、へんかして いく。
 そうやって ことばを いじくり こねくり まわす という ことが、うまく できなく なって いる ときは、しんどい。たとえば、じぶんの けいけんした ひとつの じじつが、おんなじ ひとつの イメージで なんども なんども あたまの なかで リピートし つづける じょうたいは、ほんにんに とって、ある しゅの 「じごく」だと おもう。
 さらに わるい ことに、そういった 「リピート」には、なにか クセに なる せいしつ というか、ちゅうどくせいの ような ものが あって、いちど はまると なかなか ぬけだせなく なったりも する。ふよういに ぶんしょうを かく ことで、うっかり、そういった 「リピート」される イメージを ことばに よって ますます こていさせて しまう ことも ある。
 その いみで、へたくそな かたりかたは、じぶん じしんを くるしめて しまうのだと おもう*1。「ことばを みがく」という ひょうげんは きらいだけど、ことばに かんする ある しゅの 「ぎじゅつ」は、――おおげさな いいかたを すれば――「いきるために ひつよう」なのかしらねえ という きも したりして……。

*1:もちろん、かたって いる ほんにんだけで かたりが せいりつする わけは ないのだから、「へたくそな かたりかた」の せきにんが その ひと ひとりに おわされて しまっては いけない、という ことは だいぜんていとして。