にゅうかんの じんけん しんがいに はんたい する デモ

※この きじは、かながき バージョンと あわせて、かんじ・かなまじり ひょうきの ものも よういして あります。かんじ・かなまじりの ほうが よみやすい ひとは、こちらを クリックして ください。


 6がつ 20にち(にちよう)に、とうきょうで 「にゅうかん(入管/にゅうこく かんりきょく)の じんけん しんがいに はんたいする デモ」が あります。


かぞくをかえして!ともだちをかえして!入管の人権侵害に反対するデモ+入管への5つの要求にご賛同を!
English

2010ねん 6がつ 20にち(にちよう)

しゅうごう ばしょ:よよぎ こうえん・けやき なみき(ケヤキ並木)――はらじゅく えきから あるいて 5〜10ふん


 14:00〜 しゅうかい・アピールこうかん 
 15:00〜 デモ しゅっぱつ(はらじゅく・しぶやを めぐり、こくれん だいがく(国連大学)まえを とおります)


しゅさい:SYI(しゅうようしゃ ゆうじん ゆうし いちどう/収容者友人有志一同)

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《デモよびかけ》
 6がつ 20にちは せかい なんみん デー(世界難民デー)。せかいじゅうには、けいざいてき または せいじてきな りゆうによる なんみんが 1000まんにん いじょう いると いわれて います。そのような なんみんの ほごと えんじょに ついて せかいてきな かんしんを たかめる ために、この ひは せいてい された そうです。
 ところで、なんみんとは どこか とおい くにの もんだいでは ありません。にほんは いみん・なんみん ぎょうせいに ついて とても おおきな もんだいを かかえて います。ほとんど すべての なんみん しんせい(難民申請)は、たいした しんさも なしに きゃっか されます。さらには にゅうこく かんりきょく(入国管理局)が、なんみん しんせいちゅうの ひとで さえ おかまいなしに しいてき(恣意的)な しゅうよう(収容)を おこないます。ひとたび しゅうよう されれば、じんけんが まったく はいりょ されない かんきょうの なかに、なんかげつでも なんねんでも かんきん され つづけるでしょう。しょくぎょう などを もとめて やってくる なんみん いがいの がいこくじんも、おなじように あつかわれます。しゅっしんこくでの はくがいから にげて きた なんみんには、かえる ばしょ など ありません。また、たとえ なんみんの ばあいで なくとも、ひじんどうてき(非人道的)な しゅうよう かんきょう それ じたいが おおきな もんだいです。しゅうようの あいだに しんしん(心身)の けんこうを そこない、けがをし、ときには いのちを うしなう こと すら あるのです。
 いつ かいほう されるとも しれず しゅうよう されて いる がいこくじんの かぞくは、にゅうかんに たいして こう うったえて います。「かぞくを かえして!」と。わたしたちも こう さけびます。「ともだちを かえして!」と。にほんじんの みなさん、にゅうこく かんりきょくで いったい なにが おこなわれて いるのかを ただしく しって ください。こんな ひじんどうてきな にゅうかん ぎょうせいを ゆるし つづけて いる にほんじんの せきにんに ついて、この ひに よく かんがえて みて ください。そして わたしたちは、ともに こえを あげて くれる ひとを かんげい します。


(しょうりゃく)

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ほうむしょう および にゅうこく かんりきょくへの ようきゅう

1.すべての なんみん しんせいしゃに たいする げんこう(現行)の しんさ きじゅん および しんさ かんこう(審査慣行)を ぜんめんてきに みなおし、なんみん じょうやくに もとづいて なんみん しんさ てつづきを かいぜん する こと。

2.ぜんこくの にゅうかん しゅうよう しせつに おける すべての びょうにんや けがにんを、すぐに しゃくほう するか てきせつな いりょう きかん(医療機関)に しんだん(診断)させる こと。ただし、ここで いう「てきせつな いりょう きかん」とは、にゅうかん せんぞく(入管専属)の いし(医師)や、かく(各)にゅうかん しせつが かんこう(慣行)として りようして いる がいぶの いりょう きかんの ことでは なく、ここ(個々)の ひしゅうようしゃ(被収容者)ごとの かかりつけの いりょうきかんの ことである。

3.にゅうかん せんぞくの しんりょうい(診療医)の じんいんすう(人員数) および しんだんの しつを かいぜん する こと。そのためには、しゅうよう しせつ ごとの さいだい しゅうよう にんずう(最大収容人数)に みあう かずの いし(医師)を つける こと、また にゅうかん しょくいんと せんぞく いし(専属医師)の ゆちゃくを ふせぐ ために、たんとう いし(担当医師)を ていきてきに(すくなくとも ねんに いちど)こうたい させる ことは、さいていげん とるべき そちである。

4.かく(各) にゅうかん しせつの すべての しょくいんは、なふだを つける など して きんむちゅうに なまえを あきらかに する こと。

5.げんざい いわゆる オーバーステイの じょうたいに ある すべての がいこくせきしゃに たいし、にほんで くらす うえでの あんてい した ほうてき しかくを あたえる こと。これは、にほん せいふが これらの ひとびとを、これまで ろうどうりょく として あんもくの うちに この しゃかいに くみいれ、かつ かぜい(課税)の たいしょうと して きた ことに たいして とるべき、さいていげんの せきにんである。

 にほんの にゅうこく かんりきょくの、いみん・なんみんの ひとびとに たいする、あつかいの ひどさは、たいへんに すさまじい ものが あります。くわしい ことは SYIの ブログなどで、さまざまに ほうこく されていますが、その なかから、いくつかの じれいを こちらにも あげて おきます*1

  1. 「へやが あついから まどを あけて ほしい」と たのんだら、その ことを りゆうの ひとつとして、ちょうばつぼう(懲罰房/どくぼう)に とじこめられた。
  2. ふみんしょうの ひとが すいみんやくを もって いたら、「きそく いはん」とされ、くすりを とりあげられた うえに、どくぼうに とじこめられた。
  3. どくぼうでは、しょくじの ときに はしすら ださない。
  4. しょくいんは しゅうようしゃに じぶんの なまえを なのらず、あろうことか「せんせい」と よばせている。
  5. びょうにん・けがにんに まともな いりょうを うけさせない。いしゃは ろくに しんさつせず、でたらめに いたみどめや こうストレスざい(抗ストレス剤)を だす ばかり。
  6. しせつの なかで けっかくが はやるほどの ひどい えいせい かんきょうと えいよう じょうたい。
  7. とうにょうびょうなのに、インシュリンの ちゅうしゃを うつ ことを きょか しない。その けっか、あしが ふじゆうに なって しまった。しかも、しゅうよう しせつには くるまイスが よういして あるのに、それを かりたいと たのんでも きょひ する。
  8. しゅうようしゃたちが あまりの あつかいの ひどさに こうぎ(抗議)する ために、いのちがけで ハンストを はじめると、おどしを かけて これすら つぶそうと する。「おれたちと けんかすると しゅうようが ながびくぞ」とか、「かりしゃくほうが とりけされ、しかも おおむら しゅうようじょに おくるぞ」とか*2
  9. コピー いちまい とるのに、300えんも はらわせる。
  10. いばらきけんの ウシク(牛久)にゅうかんでは、ことしに なって、2がつに 25さいの ブラジルじん だんせい、4がつに 47さいの かんこくじん だんせいが、しせつの なかで くびを つって じさつ している。
  11. 3がつに なりた くうこうで、きょうせい そうかんちゅうの ガーナじん だんせい(45さい)が、にゅうかん しょくいんの てに よって ころされて いる。


 ひとを ひととも おもわないかの ような にゅうかん しょくいんたちの 「ひどさ」に まず おどろくのですけれど、その いっぽうで このようにも おもいます。「もし、わたしが かれらの たちばだったら、やはり かれらと おなじ ように ふるまって しまうのでは ないだろうか?」と。いや、じっさい わたしは かれらと 「にた かたち」の ぼうりょくを ふるって きたのかも しれない。
 おそらく、にゅうかんの しょくいんの おおくは、じぶんが しごとの なかで ひどい ことを やって いると なかば じかく して いるのでは ないかと おもいます(その ことと きちんと むきあって いるか どうかは べつと して)。かれらだって、じぶんと かかわる あらゆる ひとに たいして、みくだしたり、おどしつけたり、いやがらせを したり している わけでは ないのでしょうから。かれらが ひとを ひととも おもわないかの ような ふるまいを するのは、かれらの せいかつの なかの 「とくべつな ばめん」に おいてだろうと すいそく します。
 その 「とくべつな ばめん」とは、にゅうかん しょくいん として こうそく された きんむ じかんに おいてであり、しょくばである にゅうかん しせつの たてものの なかに いる あいだであり、そこに とじこめられた いみん・なんみんの ひとびとに むきあう ときです。その 「とくべつな ばめん」を はなれれて、じぶんの かぞくや ゆうじんや しょくばの どうりょうと せっする ときには、かれらも いくぶんかの おもいやりを もって しんせつに たにんに せっする ことも あるのでしょう。
 そう かんがえると、かれらが いみん・なんみんの ひとたちに おこなって いる ふるまいの ひどさを まったく じかく して いないとは かんがえにくいです。


 わたし じしん みに おぼえの ある ことですが、「ひとを かんりする」ことを ぎょうむに ふくむ ような しごとを して いると、めの まえに いる たにんを 「みくだしたい」「じぶんより したの 『おとった そんざい』と みなしたい」という よくぼうが わいて くる ことが ある ように おもいます。
 「あいてに たいする じぶんの おこないが けっして ほめられた ものでは ない」という うしろめたさを どこかで かんじて いるからこそ、あいてを みくだそうと するのでしょう。あいてを じぶんより 「ひくい そんざい」だと おもいこむ ことに よって、その あいてに たいする じぶんの うしろめたさに むきあう ことから のがれようと する。
 こうして 「かんり」する あいてとの かんけいを 「とくべつな」もの、「れいがいてきな」ものとして きりはなす ことで、かれら・かのじょら(あるいは わたしたち)は、その かんけいを はなれた じぶんの かぞくや ゆうじんに せっする ときに 「ぜんりょうな ひと」「しんせつな いい ひと」としての かおを みせる ことが でき、また その あいだに むじゅんを かんじずに すむ。
 かぞくや ゆうじんに みせる かおが 「ほんとうの じぶんの すがた」であり、しょくばで みせてるのは、「ほんとうの じぶん」では ない、「じぶんより ひくい そんざい」に せっする ときに かぎっての 「れいがいてき」で 「とくべつ」な かりそめの すがたなのだ、と おもいこむ。


 また、じぶんの やって いる しごとに なかば うしろめたさを かんじる ことが ありうるからこそ、じぶんの しょくばや そこに しばられて いる じかんを 「とくべつな ばしょ」「とくべつな じかん」として、「ふだんの」 せいかつの ばしょと じかんから きりはなす ひつようせいが うまれるのでは ないでしょうか。
 こうして わたしたちは しょくばを はなれた 「ふだんの」にんげん かんけいでは はずかしくて とても やれない おこないを、「しごとだから」と じぶんに いいわけ しながら やって しまえるのだと おもいます。


 さらに、「きそく」という ものも、はたらく ひとが うしろめたさと むきあわずに すむ ための どうぐ として つかわれる ことが あります。
 きそく・ルール という ものは、あっとうてきに ふびょうどうな かんけいの もとでは、けんりょくを もった にんげんが すき かってに やる ための ものにしか なりません。つまり、ひとが ひとを かんりしたり しはいしたり する ために もちいられる きそくは、かんりする がわの にんげんの つごうで、いくらでも かってに つくったり、すきな ように かいしゃくしたり、そんざい しない はずの きそくを 「ある」と いいはったり、はんたいに そんざい する はずの きそくを 「なかった こと」に して ムシしたり できる ものです。つまり、けんりょくを どくせんする ものは、きそく・ルールを ほしいままに あやつる ことが できる。
 したがって、じっさいには、にゅうかん しょくいんは じぶん(たち)の じゆうな いしで、ねむれなくて こまって いる ひとから すいみんやくを とりあげたり、あつくるしい へやの まどを わざと しめきったり して いる わけです。ところが、かれら・かのじょらは 「きそくだから (やむを えず) そうしたのだ」と、あたかも じぶんの いしの そとがわに ある きそくに じぶんの こうどうが きめられて いるかの ように いいはったり、じぶん じしん そう おもいこんだり するのです。


 これまで のべて きた わたしの かんがえを まとめると、こういう ことです。つまり、にゅうかんでの しんじられない ような じんけん しんがいが まかり とおって いる げんいんの いちぶは、ぶつりてきに にゅうかんの しせつが そとがわの しゃかいに たいし とざされて いる ことに くわえて、そこで はたらく しょくいんの しんりてき・にんしきてきな レベルでも、そとがわの しゃかいや じぶん じしんの 「ふだんの」せいかつから きりはなされて いる ことに あるのでは ないか という ことです。
 わたしには 「かれらも また ひがいしゃなのだ」などと いいたい きもちは ひとかけらも ありませんが、ある いみで 「かれらも また とじこめられて いる」あるいは 「かれらは じぶんで じぶん じしんを とじこめて いる」という ことは いえるかも しれません。
 だからこそ、にゅうかんと、ひいては ほうむしょう、にほん せいふに たいして、「なにが おこなわれて いるのか、かんしんを もって みてるぞ」という ひとりでも おおくの そんざいを かたちに して しめせたら いいなと おもいます。
 こんかいの デモが その きかいの ひとつに なれば よいし、デモと あわせて さんどう(賛同)して いただける こじんと だんたいを つのって おります。
さんどう(賛同)の おねがい
いまの じてんでの さんどうしゃ(賛同者)の いちらん


 なお、デモには にゅうかんに かぞくを とじこめられて いる(いた)、あるいは みずからが とじこめられた けいけんの ある、たくさんの いみん・なんみんたちも さんかされる よていだと きいて おります。デモの まえには しゅうかいを おこない、そうした かたがたの おはなしを きかせて もらう じかんも もうけられるそうです。
 だれかを きずつけた という りゆうすら なしに、ひとを とじこめ、かぞくや ゆうじんから ひきはなし、さらに いのちの きけんに さらす。にほん せいふが にゅうこく かんりと しょうして いみん・なんみんの ひとたちに やって いるのは そういう ことです。
 かれら・かのじょらの おはなしを きき、いっしょに まちを あるく ことは、にほんこくの ゆうけんしゃとしての せきにん、また いわゆる 「せんしんこく」の はっこうする パスポートを もてる にんげんの せきにんと いしきが――もちろん わたしも ふくめて――とわれる きかいに なるのでは ないかと おもって います。
 たとえば、もし オーバーステイが 「せめられるべき」ことがらで あり、かれらが しゅうようじょに とじこめられ、ひどい かんきょうに おかれるのが 「あたりまえ」だと かんがえるのだと したら、それは いったい どうして 「あたりまえ」と いえるのか? もし わたしたちが ひかくてきに あんぜんで ゆたかで じゆうな かんきょうで くらせる ことが 「あたりまえ」で、かれら・かのじょらが それを もとめて こっきょうを こえようと する ことが 「あたりまえの けんりで ない」のだと したら、それは なぜなのか?


 おなじ 20にち(にちよう)には、おおさか(大阪)でも にほんの なんみん せいどを かんがえる しゅうかいが もよおされるそうです。
せかい なんみんの ひ  2010 かんさい しゅうかい




*1:それぞれの じれいに ついて、くわしくは リンクさきを およみください。1,2,3,5,6,8,9→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/ 
4,→http://pinkydra.exblog.jp/12745057/
7,→http://pinkydra.exblog.jp/i3/
11→http://d.hatena.ne.jp/asita211/20100331/1270071584 および http://pinkydra.exblog.jp/12361344/>

*2:ながさきけんの おおむら しゅうようじょに おくられたら、とうきょうや その しゅうへんに すんで いる かぞくが めんかいに いく ことが いちじるしく むずかしく なります。