ジェフ・ベックのギター(後編)

 羊頭狗肉になってしまった前回の続き。


 収拾がつかなくなったのでありますが、おととい書いたのは、ギター小僧のはしくれとしてのわたくしが、ギター・ヒーローたちをどう見ていたのかということでした。ギター・ヒーローは望ましい自己像を投影する鏡であって、いわば「なりきる」対象であったと(なんだ、2行ですむ話ではないか……)。
 今日書く話は、そんななかにあってベックさんは特異だと、へぼギター弾きなりに私には思われるというようなことです。


 ジェフ・ベックの演奏は、「なりきる」という行為を拒絶するものがなにかしらある。
 あくまでも私の過剰な妄想上でのことだが、彼が演奏する空間は、大勢の観客を前にしたスポット・ライトのあたる華やかなステージとは対極に位置するものだ。ベックは私を暗闇へと導きたもう。
 そこにあるのは、振動する空間と身体に密着したギターのみ。彼はギターをつま弾き、空間から振動が返ってくるのを待つ。空気が返してよこす返事をひとつひとつ確かめながら、またギターを介して空間にむかって合図を送る。
 ベックの作り出す間(ま)は、ちょっと独特だ。そこからは、音を出す合間に考えこむしぐさや、音が返ってくるのを確かめるかのような構えを感じる。まるで、空気と何かをやりとりしているかのようである。彼の演奏からは、内面のエネルギーを外に放出するというよりも、空気の振動に注意深く耳を傾けながら、受け取った音を多彩に変奏させてはじき返す姿がイメージされる。あくまでも、音を出すのはギターであり、アンプであり、空気であって、彼はそこで鳴っている音を方向づけるコンダクターの位置に立っているという印象だ。内なる情動の表出というよりも、空(くう)から自在に音をつかみ出すマジシャンという感じ。
 

 彼のプレイ・スタイルは、騒々しさとは無縁だ。「だまって聴け」という演奏。といっても、「おれの演奏を聴け」という押しつけがましさはまったくなく、彼自身が耳をすまして音を受けとろうとしている姿が、目に浮かぶ。だから、「だまって聴け」というのは「こっちを向け」じゃなくて「おれのじゃましないでくれ」という意味。
 轟音を響かせているようであっても、静謐にあって鳴っているように、音の輪郭がひとつひとつ伝わってくる。
 ベックの出す音はおどろくほど多彩で、微妙なニュアンスに富んでおり、そういった意味では視覚に訴えてきてもよさそうなのだが、不思議なことに私には暗闇で鳴っているように感じられるのだ。彼の演奏の前では、光は薄まり、色はあせる。ただ音だけが飛び込んでくる、という感じ。


 そのうえ、ベックの演奏は──音楽を評する言葉としては否定的にもとらえられかねないのだが──情緒的な思い入れすら許さないものがある。ふつう、音楽を聴いてその世界に入り込むという経験においては、もの哀しい感傷だったり、軽快な解放感だったり、厭世的な虚無感だったり、音の世界の外ですでに知っていた情緒を重ね会わせるということをしているように思う。むろん、ベックの演奏からでも、たとえば「哀切」のような感じを受け取ることは可能だが、そのときでさえも、音楽外の体験を想起して感傷にひたるといった余地はほとんどない。彼の発する音はあくまでも即物的であって、既知の情緒には置き換えられない異物のようなものをつねにふくんでいる。彼の演奏によって起こる感情なり情緒なりがあるにしても、それは彼の音によってはじめて構成されるものであって、それに似た別の何かでそれを置き換えることはできないという気がする。


 書いていることが信仰告白じみているが、まあ私がジェフ・ベック大先生*1に対して抱いているのは「信仰」に似ているという気がする。
 「神の偶像をつくってはならない」「神の名をみだりにとなえてはならない」といった教えは、おそらく「神を人間ごときが想像できるイメージやもので置き換えてはならない」ということなんだろう。


 こんなことを書いていても、べつに唯一絶対なる神を称揚して他のものは「偶像」としておとしめようというつもりは、私にはないのですよ。ユーミンはだめだとか言いたいわけではさらさらないのです。自分が好きな対象の優位を主張するために別のものをダシにするのは、たまらなく下品だと思いますし。


 ジェフ・ベックから私が受ける、自己投影や感情移入をはねかえすような要素は、ストイックさを感じさせるほどきわだってはいる。その点で彼はきわだっているとは思うのだけれど、その要素はベックにかぎらず優れた演奏者や作曲者の作品が、リスナーの自己投影・感情移入を許すかどうかとは別にふくんでいる要素であると感じる。
 音楽を聴く経験が、世俗的でとるにたらない(けれども、それを大事に抱えて生きるよりほかない)悩みや悲しみや苦しみや愛情や憎しみを否定したり解消したり忘却させたりするのではなく、けれども同時にそこからいくぶんかでも解放されることをもたらすのだとすれば、その要素はどこにあるのだろうか。そんな、これもまたとるにたらないことを考えるヒントに、ジェフ・ベックの音楽はなるんじゃないのかなあ、と思った。

*1:むかし中島みゆきがラジオ番組で彼を「大先生」と呼んでいるのをきいたことがある。