「学校」を攻撃するということ(2)

lever_building2005-02-15



 今日は時間がないので、写真の「9」の文字について註釈だけしておく。


 1988年2月21日の朝、世田谷区立砧南中学校の校庭に巨大な「9」の字があらわれた。447個の机が、深夜のうちに教室から運び出され、何者かによって校庭に並べられたらしい。


 その3日後に「日本帝国主義革命連合軍別動黒い9月一派」なる名義で犯行声明が発表される。
「ワガ隊ハ2・21予定通りジャニーズ芸NO人ニ反日分子ノ処罰ヲ警告スルコトガデキタ」「9=ヒカルゲンジ+ショウネンタイ−1暗殺」
 
 
 事件からちょうど2ヶ月後の4月21日に、机を並べたグループの5人が逮捕された。いずれも当時21から22歳の同中学校の卒業生であった。彼らは取り調べに対し、つぎのように述べたそうだ。
「9は最大の数字。おれたちは1999年に日本でトップにいる人間だ。世間がどれだけ騒ぐか試してやった。宇宙人は存在する。あれは宇宙人に対する呼びかけで、宇宙人から選ばれれば限りない力をもつことが出来る」


 以上は、山崎浩一『退屈なパラダイス』*1を参照した。


 私はこの「犯行」に痛快なものを感じる。いい歳こいて幼稚ではあるが、彼ら「犯行グループ」に同一化して、その視点から事件をみるからだろう。仲間とワイドショーなんかみてドキドキするのはさぞ愉しからん、と。「ウキャキャキャ、このコメンテーター、マヌケだぜ」かなんか言いながら。
 反対に、オトナの感覚とは、こういうのなのだろう、と思うのがつぎの2チャンネルの投稿。

103 名前:* 40 * 投稿日: 2001/05/13(日) 00:43
どうやら、私の言うことの真意が分からない人達が多いみたいなので、
ここらでちょっとサービスしておくと、


要するに、
1.夜中にこっそりと机を運び出して校庭に並べたところで、迷惑なだけ
だということ。
2.そういう迷惑なイタズラに何か意味を見出し、それこそ
>>30
みたいに「事件そのものは国家権力にとってはかなり危険なものがあっ
たんだ よ!!。」なんて言い出すのは考えすぎということ。
3.こんなことで国家権力はビクともしない。ビクッとするのは、その
学校の先生たちだと。
4.だから彼らが国家権力への攻撃のつもりでやった、あるいは、他の人
が国家権力への攻撃になると考えても、そのことにより、実際に攻撃に
晒されたのはせいぜいが学校の先生たちにすぎないのですよ、と。
5.実際いろんな人がこの事件で迷惑を被ったので、安易な模倣犯を出さ
ないためにも無意味な美化をやめましょう、ということ。


http://yasai.2ch.net/uwasa/kako/989/989256915.html


 そりゃあね、「9」の字くらいで「国家権力」はビクともしないでしょ、というのは同意する。けれど、「ああ、やっぱり『迷惑』って言うのね」と陰鬱な気分にはなってしまう。
 「権力」なんて言葉を使う趣味はないけど、「迷惑」をかえりみて行動を規制することこそ「学校権力」に飼いならされるってことじゃないのか、と思う。「おまえ、迷惑だから」は教師の論理であり、いじめっこの論理でもあった。さればこそ、「迷惑」に《みえる》ことをばあえてやったれ、とすら思う。ただし、ルサンチマンのかけらもみせずに。


 で、9の字事件の場合、その「迷惑」にみえることの実態は、と言えば

  • 縛られて監禁された警備員はちょっと気の毒だけれども
  • 「被害」なんてあってないような事件なのに、マスコミが大騒ぎしたてまえ、メンツをかけて犯人検挙にあたらなければならないおまわりさんたち
  • 学校の先生たち?(マスコミ取材の応対とか??)
  • 授業がつぶれて、校庭の机を教室に戻すのにかりだされる生徒たち(ラッキーじゃん)

ぐらいのことで、たいしたことないのではないか。


 「迷惑」にみえながら、そのじつたいして「迷惑」ではない行為を大々的に遂行することによってこそ、私たちの行動を規制する「迷惑」なる思いこみが「案外迷惑じゃなかったのね」ということを露見せしめ、「ああよかったよかった、脱力脱力、この世も棄てたもんじゃないね」としばし安楽の境地へと人をいざない、自殺者は減り、人を殺そうとしていた者は思いとどまり、カラスはあほうと鳴いて山に帰り、桶屋がもうかって一件落着、めでたしめでたし、とっぴんぱらりのぷぅなのである。
 

(事件の概要だけ書くつもりが長くなった。つづく)

*1:筑摩文庫、1992年。初出は1988年筑摩書房