「学校」を攻撃するということ(3)


 続きものを書くつもりが、日にちの間隔があいて、「あれ? 何を書くんだったけ」ということになり、収拾がつかなくなってしまった。14日に書き始めたときと気分がだいぶ変わってしまっているし、どこに着地したらよいのかわからなくなっている。小学校に卒業生が侵入して教師らを刺した大阪の事件に思うところをぼんやりと示した。次に17年前の9の字事件を想起し、で、3回目の今日で2つの事件と私の経験を照らし合わすことではじめに示唆していた大阪の事件へ感じた困惑をもうちょい明瞭に言語化できるのではないか、と考えていたのだが、頭のなかがこんがらかって、よくわからなくなってしまっている。
 そういうわけで、9の字事件については、語りたいことはあるので、時期がきたらば、日をあらためて今度書くことにし、寝かしておく。今回は大阪の寝屋川事件などに感じていることについてのメモ。


 14日にも述べたけれども、私がちょっと気になっているのは、学校をすでに出た人間が「学校」という場に帰ってきて攻撃を加えるという行動──その際、選ばれるのが自分の出身校であれそうでないのであれ──が、何を意味するのか、ということである。
 それは、学校を攻撃対象に選ぶ元生徒・元児童(たち)の卒業後の生活や受け皿の問題でもあろうし、彼らが生徒あるいは児童であったその時点における学校の問題でもあろうけれど、いずれにせよ彼らが「学校」を「卒業」しきれていないと言ってもよいのではないかと思われるのである。
 それは、「異常」なことのようにも思われるけれど、他方で、どこか「わかる」ような気のするところもある。それで私は何かひっかかっているのだけど、うーん、どうも言語化できぬ。頓挫。