「こいつを殺せ」と言うことについて


 憂鬱な気分になってしまっているのだが、それは死刑制度に関するブロガーたちの論評を読んでいるからなのであった。


 19日に内閣府から「基本的法制度に関する世論調査」というのの結果が発表されたのであるが、そのうち「死刑制度の存廃」をめぐってさかんに議論がなされている(以上、リンクいたしましたのは、内閣府のサイトでございます)。その議論のされかたに気になったことがあるので、書きとめたいと思う。


 実数としてどれくらいの人が議論しているのかわからないが、いやはや、いっぱいの人が議論していることよ。おもに「死刑制度存置派」と称する人たちの言っていることに興味があって見てまわっていたわけだけど、「死刑制度」そのものが議論されていると思えるものはすくなかった。


 私が違和感をおぼえ、憂鬱になったのは、こういうことだ。多くのブロガーが、具体的な凶悪事件の「犯人」(といっても、実際は判決の確定していない「被告人」である場合が結構ありましたけどね)の名を明示し、またはそれとわかるように示唆し、まあ要するに「こいつを殺せ」と言っている文章が多く目についたことである。
 もっとも、誤解のないように言っておくと、私自身は相手が凶悪事件の「犯人」であっても「殺生はいかんよ」と思うのであって死刑制度を肯定することはできないけれども、それでも死刑制度の存置を「やむなし」と考える立場からの議論が可能だということは理解できる。また、その立場に立つ人が、「犯罪抑止力」という観点から死刑制度の存置を主張しようとするのも──「抑止力」の有無、強さに関する評価そのものが論点になりうるのだけれども──理解はできる。
 しかし、その場合でも、具体的な「犯罪者」を名指しして、「こんなとんでもない人間を生かしておく価値はない」「こいつが更正するわけがない」とその凶悪性・非道性を根拠に死刑という《制度》の是非を論ずるのには、抵抗をおぼえる。それは《制度》に関する議論から、「こいつを殺せ」という意思の表明へとずれていってしまっているのではないか。
 死刑制度の犯罪抑止力をどう評価するのかとか、刑法体系における罰則の意味をどう考えるかとか、そういった議論を経て死刑制度を存置すべきだというのなら、理解はできる。しかし、そうして《制度》を論じているはずの文章のなかで、具体的な「犯罪者」を「裁く」という行為が遂行されてしまっていることに、やはり私はひっかかる。


 そして、私がそういった違和をおぼえた議論を読んで、もうひとつひっかかったのが、彼らの多くが犯罪被害者やその遺族の心情を論拠にするのだけれども、そのしかたに対してである。
 むろん、被害者や遺族の心情の問題は、刑罰制度を論じるときの、避けることのできない論点のひとつではあろう、と思う。死刑が被害者と遺族の報復を国家が代行する側面をもつという見方もわかる。
 しかし、そう考えるならば、それは文字どおり被害者と遺族による報復を《代行》することであるはずで、要するにそれは「私が殺してやりたい」「私が殺してやる」という意思の《代行》であるはずだ。すなわち、「被害者であるあなたに代わって私たちが殺します」という《代行》でなければならない。ところが、具体的な「犯罪者」をあげて死刑存置の根拠とする人たちが声高に主張しているのは、くり返すが「こいつを殺せ」という、どこかの第三者に向けての委託ないしは命令にほかならない。そこで名をあげられた「犯罪者」を自分(たち)が「殺す」という局面を、おそらく彼らは想像していないようにみえる。
 家族や親しい人を殺された人が、「自分の手で犯人を殺してやりたい」と語る心情は、想像できるし、否定できない。それは、二重にいたましい。ひとつは、それはその人の家族や親しい人が殺されて戻ってこないということを思ってのいたましさだ。もうひとつは、「殺してやる」「殺してやりたい」と語らざるをえないということ、そして、そう語ることの覚悟の深さを思って感じるいたましさである。他人を自分の手で「殺す」ということを想像するのは、どんなにかつらいことであろう。
 一方、「あいつを殺せ」と言うのは容易なのだろう。あるいは、快感ですらあるのだろうか。
 「私が殺してやる」と言うのと「おまえ、殺してやれ」と言うのとでは、途方もないへだたりがあるんじゃないのか。「おまえ、殺してやれ」の「おまえ」が「国家」「法」「社会」「制度」といった抽象性においてしか想像されないならば、「殺してやれ」「殺せ」と言うことはたやすいのかもしれない。つまり、「国家」や「制度」に対して「あいつを殺せ」と命じるのは、心理的な抵抗が小さいのかもしれない。しかし、死刑は執行人という具体的な人間の手で直接執行されるのだし、それが「国家」や「法」の名のもとでなされるならば、「主権者」たる「私たち」が殺す主体であるとも考えられる。
 遺族の「私が殺してやる」という意思をあなたが《代行》できるのだろうか。そう「平和ボケした日本人」に聞いてみたい気がする。「自分じゃなくて国家が代行する? 都合のよいときだけ国家に頼るんですか」とも聞いてみたい気がする。


 凶悪犯罪者を自分(たち)が「殺す」という覚悟のもとで、あるいはそのことについてのためらいを含みつつも、「それでも死刑制度は存置せざるをえない」と考えるならば、それは私の考えと反するけれども、傾聴に値するし、その論者に敬意をはらえると思う。