『ちびくろサンボ』復刊について
『ちびくろサンボ』が復刊ということで、検索かけてブログなどちらちら見ていたら、けっこう歓びの声が聞かれたのである。まあ、おめでたいことではある。歓んでいる人に、おめでとう。
私にしても、子どもの頃に読んでいまだに記憶に残っているんだが、そういう絵本は数えるほどしかないもので、すぐれた作品であるのだろう、とは思う。
サンボ少年が自分の体のかわりにトラに差し出す上着やら傘やら靴やらがカラフルできれいだったなあとか、トラたちがおたがいのシッポにかみついて木のまわりを高速回転、溶けてバターになる場面とか、トラのバターで焼いたホットケーキはうまそうだったなあとか、そんなのが印象に残っているのである。
で、瑞雲舎が復刊することになった岩波版の表紙*1を見てあらためて思ったのだけれど、あれってちょっと変だよ。だって、インドが物語の舞台なのにサンボ少年の顔は、アフリカ系の黒人をデフォルメする典型的な描かれ方をしているんだもの。「日本人」というと、つりあがった細目に眼鏡かけていて出っ歯で肩からカメラを下げていて……といった戯画化をされるのと同じで、「不快だ」と感じる人がいるのは理解できる。
もし、『ちびくろサンボ』を独立したテクストとしてあらゆる文脈から切り離し、それこそ「子どもの純粋な目」で見るのであれば、たしかに「差別的」というのはあたらないとは思う。
しかし、「人種」をデフォルメして描くということにおいては、作品の成立した時代と、それが読まれる今日のコンテクストもあわせて考えざるをえないんじゃないだろうか。つまり、『サンボ』自体は、「黒人」を「かわいらしく」描いているのだとしても、それはすでにステレオタイプ化されて流布している「黒人」イメージに不用意に乗っかってしまっているわけで、その一点にかぎっていえば、なんとも後味の悪い作品だと思わないでもない。戯画化された表現には、いやおうなく「毒」が含まれてしまうのであって、それがステレオタイプをただ単に反映してしまっているとなれば、その「毒」の質があまり気持ちのよいものではないということもある。
つまらない俗情をだらしなく《反映》してしまっている点は、文芸作品としてみても「瑕」だとは言える。無粋なことを言ってしまってファンの人には申し訳ないけど。
もっとも、英国人である原著者のヘレン・バナマンはサンボを「アフリカ系の黒人」としては描いておらず、版権がバナマンの手を離れてアメリカで出版される過程で「アフリカ黒人を揶揄するような挿絵に変え」られたということらしい。そこらへんの経緯についてはこっちのサイトを参照しました。
むろん、だからといって絶版にするのはナンセンスですよ。ただ、すでに成人した人たちにとって、子ども時代の「思い出の作品」だからといって、これをロマンチックに聖域にして「まったく差別的でない」なんて言ってしまうのは、なんか大人げないなあ、と思うのですよ。
『ちびくろサンボ』は、作品そのものから差別的な悪意を感じられないとしても、デフォルメの作法において差別と無縁とも言い難い。だからといって、作品としてダメだなんてことはもちろん一概に言えない。たとえば、シェークスピアの『ヴェニスの商人』における高利貸しシャイロックの描かれ方なんか、まさに当時ヨーロッパで流布していた差別的な「ユダヤ人」イメージを反映しているわけだけど、読み手としてはそういうところから距離をおいて読めるわけである。
『ちびくろサンボ』にしても、そういうふうに距離をおいたうえで「やはり名作といえるんじゃないの」という再評価の仕方があってもいいと思うんだけどね。この作品を知っている人にとって、『サンボ』はもはやいいかげん「古典」として扱ってよい作品ではないのだろうか。「懐かしくって愛おしい思い出の名作にケチをつけないでよ」っていう気持ちはわかるけどさ。
You can't put your arms
Around a memory
You can't put your arms
Around a memory
You can't put your arms
Around a memory
Don't try, don't try
思い出を抱きしめるなんてもうやめようよ(ジョニー・サンダース YOU CAN'T PUT YOUR ARMS ROUND A MEMORY より)。