作家の顔──三島『潮騒』より

lever_building2005-03-09



 やあ、男前ですねえ。
 三島由紀夫潮騒*1を読んだのだけれど、ひょい、ひょい、と顔を出すのですよ、作者が。


 非常に多用されているパターンがある。「……した」「……かった」等、描写のための「た」止めの文がトントントントンと続いたのち、「……のである」という形の説明の文がひょっこり顔を出す、そういうパターンだ。「……のである」の文は、状況説明としては言わずもがなの蛇足とも思われる場合がしばしばで、どうもそれは、どういうつもりなのか定かではないけれども、物語の中に作者が顔を出すためにわざわざそうしているようにも思われるのである。
 たとえば、海女たちが昼の休憩をとっている、こんな場面。

 焚火のまわりは午休みの談笑にさわがしかった。砂はまだ蹠を灼くほどではなく、水は冷たかったが、それでも水から上って来て、あわてて綿入れを着て火に当たらねばならぬほどでもなかった。みんなは声高に笑いながら、胸を張って誇らしげに自分の乳房見せあっていた。なかに両掌で乳房を持ちあげるようにしている者がある。
「いかん、いかん。手は下ろさないかん。手で持ったら、いくらでもごまかせるよって」
「手で持ってもごまかされん乳房してて何言うのや」
 みんなが笑った乳房の形を競い合っているのである。[132-133頁]*2


 最後の「乳房の形を競い合っているのである」というところは、いちいち説明しなくてもわかることではある。状況説明としてみるならば、あきらかに余計な一文と言ってもよいだろう。
 「た」止めの過去形の描写がいくつか続いたあとに、「……である」で閉じる、というリズムは、作品全体を通して頻繁に繰り返される。もっとも、「……である」形の文が、状況説明ではなくて、描写を行なっている場合も多いのだけれど。
 「……である」の形のほかにも、過剰とも思える状況説明は、ぽつぽつと顔を出す。以下は、主人公の少年の恋敵と、期せずして主人公を追い込んでしまうその幼なじみの女子学生との会話に挿入される描写。

 安夫は父に組合の用事をたのまれて、前日から津の県庁へ行き、鳥羽で親戚が営んでいる旅館に泊り、この舟で歌島へ帰るところである。彼は東京女子大生に標準語を使ってみせるのが得意であった。
 千代子は同い年のこの世馴れた少年の身振から、『この女は俺に気があるな』と決め込んでいる男の快活さを感じた。そう感じると、彼女はますますいじけてしまう。再たこれだと思う。東京で見た映画小説の影響もあって、『僕はあなたを愛しています』という男の目の表情を一度でも見たいと思う。しかもそんなものは一生見られぬと決めてかかっているのである。[58頁]


 引用した2段落目は、基本的には、作者は千代子の内面に潜行し、彼女の視点から彼女自身の心情が描写されているところである。ところが、最後の「決めてかかっている」という箇所は、千代子の内面をさめた眼で突き放して見る作者の判断・思考が、不意に顔を出している。
 もう1箇所下線を引いた「東京で見た映画や小説の影響もあって」というところも、そう。ふつう小説において、描写を行なう場面で、「……の影響もあって」というようなあからさまに因果論的な説明がなされるのは、「下手」という烙印をおされかねないことであるように思う。説明に頼るのではなく、描写によって因果論的関係をそれとなく示唆するのが、オーソドックスな書き方ではあるだろう。そこを三島は、「影響」という露骨な説明づけの文句を出すことで、しかもそこで語られる原因が登場人物である千代子の自覚・意識の外にある点で、描写の背後に隠れているはずの作家の存在感を不自然に浮上させている。
 こういうふうに、フィクションにおいて作家がホイホイ顔を出すという手法は、現代からするとそうめずらしいものではないかもしれない。誰とは言わないけれど、ただ単に下手っぴな小説家が自覚も計算もなしにそういうことをやってあられもない姿をさらしているのは措くとして、コミックなんかだと、ずいぶん前から自覚的に手法として採用されてきたように思う。ただ、三島のこの作品は1954年なのですよ。
 それと、三島由紀夫という作家がきわめて老練な──『潮騒』を発表したのはなんと29歳のときだが──手練れだというのは、はっきりしている。構成にいっさいの無駄がなく、徹底的な様式美を追求している人であるようなので、計算ぬきにやっているとは思えないところがある。実際、ぽつぽつと作家が顔をのぞかせる度に何かひっかかりを感じるものの、そのひっかかりがこの作品をだめにしているかというと、私の感覚からすれば、そんなことはない。むしろ、かなり楽しめた。
 おそらく、この作品において不可欠な手法であったのだろう、という気がするのだが、それがどういうことなのか、不思議である。


 奇妙な、しかし、かならずしも不快ではないひっかかりをおぼえた、そんなところをあげていくときりがないのだが、もうひとつだけ。嵐の日の、主人公とその恋人の少女とのひそかな逢瀬のシーン。約束の場所に早く着いた少年が焚火をしながら眠ってしまい、目をさますと少女が脱いだ服を火のまえでかわかしていたというところ。

 信治が女をたくさん知っている若者だったら、嵐に囲まれた廃墟のなかで、焚火の炎のむこうに立っている初江の裸が、まぎれもない処女の体だということを見抜いたであろう。決して色白とはいえない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引締り、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげていた。信治は見破られるのが怖さに、ほんのすこししか目をあけていなかったので、この姿はぼんやりとした輪郭を保ち、コンクリートの天井にとどくほどの焔を透かして、火のたゆたいに紛れて眺められた。[71頁]


 冒頭の文で、「女をたくさん知っている」(?)作者の目線が、かなり露骨に顔を出している。生まれてはじめて異性に恋い焦がれている純情な少年のわきからである。
 あはは、なんだろう、これ。まさか、覗き見する第三者の視線を介在させることで、エロティックな場面を演出しようという魂胆じゃないだろうけど。ていうか、私、この冒頭の一文だけはちょっと不快だったんだけど。

*1:ISBN:4101050074

*2:下線部強調は引用者。[ ]内の頁数は新潮文庫版。以下引用箇所も同様。