初期クラッシュは「未完成」にあらず


 マスゲームってあるよね。たぶん、ああいうのが「美しいか」といま聞かれたら、テレビなどでキム将軍をたたえるマスゲームなぞを見させられていることもあって、「なんか不気味だよね」と答える人が多いのではないだろうか。
 で、私もマスゲーム的なものを拒絶する美意識を肯定したいのであるが、アンチ・マスゲームとしての美とは、いかにして可能なのであろうか。調和に対するノイズだろうか。予定調和に回収されない偶発的要素だろうか。アポロン的なるものにたいするディオニュソス的なるものだろうか。いや、自分で書いていて言葉の意味がよくわからないんですけど。
 とにかく、いびつな造形のもつ美しさというものがあると思うのだけれど、そこにはいびつでありながら、ある種の調和があるはずで、それがマスゲーム的な調和と異質なのだとすれば、それはどういう調和なのだろうかと思うのである。「どぶね〜ずみ〜みたいにぃ〜、うつくしくなり〜たい〜」じゃないけどさ。


 マスゲーム的なものの薄っぺらさというのは、ひとつには、設計者が描くデザインのもと、個々の要素が一元的に管理されるというところにあるのだと、とりあえず言えるかもしれない。演じる個々人は、「個性」を奪われて、全体に従属するわけで、全体としての「調和」はあっても、要素どうしの対抗はない。個は、予定調和としての全体における部品にすぎないというわけだ。
 もうひとつには、──私はこちらについて語ろうと思うのだけれど──マスゲームは、全体を一望できてしまうのであって、ひとつの見え姿しかもたないということがあろうかと思う。野球やサッカーなどのような見せ物は、どのプレーヤーや局面に着目するかによって、見え姿が異なってくるのに対し、マスゲームには局面がひとつしかない。蔭がない、といってもよいかもしれない。


 前者の観点──「マスゲーム=予定調和」──からアンチ・マスゲームの美をとなえるとすれば、予定調和から外れる、あるいはそれを攪乱する「ノイズ」であるとか「偶発性」であるとか、はたまた「他者」とか「無意識」とかを称揚することにならざるをえない。合理的な計算の枠外に、情動を喚起する何ものかをみようとするわけだ。
 で、実はここからが本題に近づくのだけれど、パンクはそのようなものとして語られ、評価されてきたように思う。未熟、未完成な荒々しさ、既成の様式への破壊力に、その価値がおかれて語られてきたぶんが多いのではないだろうか。「理屈じゃないんだ! この演奏にこめられたハートを聴け!」みたいな精神論が語られたり、70年代後半のロンドンという時代と空間がもっていた「エネルギー」が生み出した「事件性」として語られたり。


 私もこうした見方を完全に否定するものではないけれども、あまりにその一面を強調するのには、いくらか違和感をおぼえてしまう。私は、ザ・クラッシュに、またセックス・ピストルズニューヨーク・ドールズ(彼らはロンドン・パンクではないだろうけど)に、ある種の調和というか様式の美をみいだしてしまうからだ。彼らはしたたかな匠じゃないの、と思うのである。まあ、「パンク」とひとくくりにしてしまうのもどうかと思うので、今回は初期クラッシュについてのみ述べたい。
 3枚目のアルバム「ロンドン・コーリング」が高く評価される彼らではある。また、私自身「ロンドン・コーリング」以降の作品群も夢中になって何百回と聴いてきたものである。けれども、1枚目2枚目のアルバムやその時期に録られた音源もまた、決して粗雑なだけではない、非常にたくみにつくりこまれたものだという印象がある。


 音楽から受ける感覚や印象を説明の言葉におきかえるなんて、途方もなく困難なことで、要領をえない言い方になるけれど、初期クラッシュの気持ちよさは、ジミ・ヘンドリックスの、たとえばLove or Confusionのイントロの気持ちよさに通じる。って、これじゃほんとにわけわかんねえよね。
 2本、あるいは3本のギターの交差というかからみ合いがかなめなのですよ。
 中低音域がカットされたジャリジャリっていうバッキング・ギターが背後で鳴っていて、そこにつやのあるやや太い音のフロント・ギターがからんでくる。前景のフロント・ギターは、それ自体が鮮明な輪郭をもったメロディーを奏でるというより、目立たずに鳴っているバッキング・ギターをいかし、かつ、それとのひっかかりによって自分自身もいかしている。
 ジョー・ストラマーテレキャスターで弾くバッキングは、いわば目の粗いキャンバスとでもいおうか。その目の粗さは、もう1人のギタリスト、ミック・ジョーンズがその上に切りつける感触によって触知せらるる。
 聴く側には、奇妙なことが起こる。フロント・ギターに意識を向けると、かえってバッキングの方のジャリジャリした感触が浮き上がってくる。反対に、バッキングに意識が向くと、今度はフロント・ギターの鋭利さがきわだってより美しく聴こえてくる。まるで、意識は注意を向けた先に潜行するかのように、その注意を向けた対象はぼやけ、背景にあったものが浮き上がってくる。


 と、ここまで書いてきて、あれ、アタシなに言ってるんだろう。「地と図の反転」みたいなことをオレ言ってないか。それって、マスゲームが表現するものと変わらないじゃーん。そういえば、マスゲームとアニメーションの原理は似ていそうだ。
 まあ、あれだ。マスゲームにせよ、アニメーションにせよ、音楽のアンサンブルにせよ、表現の手段というかメディアの違いは、本質的ではないのかもしれない。でも、マスゲームってイヤだなあ。君が代斉唱するのもイヤだ。そういえば、昔、校歌を歌うのもイヤだった。まあいいや、もうそんな機会、一生ないだろうから。


 とにかく、The ClashのLondon's Burningを聴き、Police and Thievesのギターのかけ合いと2度目の間奏を聴き、などすると、意識の向き先によって、同じ曲でも浮上する見え姿は変容するということ。もちろん、これはギター・パートにかぎったことではない。初期のクラッシュは、軽装備の4人のメンバーで曲にみごとな重層性を与えている。だが、そこで重要な働きをしているのはギターである、と思う。
 中後期のクラッシュは、ギターの比重を落としながら、ドラマーのトッパー・ヒードンが大活躍し、またバンド外のミュージシャンの貢献もあって、バンドとしての重層性を高めていく。しかし、その萌芽というか、むしろ違った形での洗練され完成された姿が初期にすでにあったのだよ、と私は思うのである。


 ていうか、オレなに言ってんだろう。頭だいじょうぶか、オレ? クラッシュ大好き!