私にとっての「あなた」は、あなたからすれば「私」でないのか?


 ポピュラー・ミュージックにおいて求愛ソングは可能なのか、なんてことを考えているのである。
 夜這い歌というものがある。ていうか、よく知らないんだけど、あるんでしょ、民俗として村の若者が夜這いをかけるときに歌う求愛ソングが。
 ほんで、ポピュラー・ミュージックとしてのラブソングが妙だと思うのは、"I love you"と歌ったらそれは形式上は求愛の「メッセージ」のようにみえるのだけれども、しかしそれは宿命的に「メッセージ」になりえないんじゃないかと思われることである。

何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは小猫の様な泣き声で


 尾崎豊のその名もズバリ「I love you」という歌の一節。尾崎の歌は、私は感覚的によくわからないのだけれど、ある種の訴求力にすぐれた詞ではあるのだろうと思われる。しかし、熱心に聴くファンの人たちにしたって、この歌からの「メッセージ」の受け取り方として、「やだあ尾崎さんたら、小猫ってわたし? わたしのこと? いやーん、にゃんにゃん」というのは、まあ、あんまり、というか、ほとんどないだろうと思われるのである。ポピュラー・ソング(「産業歌謡」と言ってもよいけど)で歌われる「おまえ」や「あなた」や「きみ」という言葉を、例外はあるにせよ、聴き手が「わたし」のこととして受け取ることは、まずないであろう。"I love you"と「あなた」に向かって歌われているのに、誰も自分に向けてその歌が歌われているとは感じない。
 これは妙なことですよ、と私は思う。だって、「メッセージ」のやりとりにおいては、発信者の発語する人称代名詞の"you"は、受信者にとっては"me"であるはずなのだから。そして、歌詞中に"you"や「おまえ」の語を出したとたん、その歌の、少なくともその部分は"I"から"you"に向けられた「メッセージ」としてのしるしを、避けがたくおびてしまう。言い換えると、"I love you"と歌ったら、それは求愛ソングの外形を得てしまう。ところが、聴き手は"you"の呼びかけに答えることなく、なのに歌に没入している。"You"はどこにいるのさ。


 ラブソングに入り込む聴き手は、"you"を三人称に転換して聴くのか、それとも歌い手の一人称を奪取してみずからの一人称として聴くのか。いずれにせよ、ラブソングはいつだって内向的だ。実質的な二人称を欠いて歌われる、形だけのメッセージ・ソングとしてのラブソング。
 見方によってはグロテスクに見えないこともないそんなラブソングをカラオケで歌うとき、なにか象徴的な光景がそこにあるような気がする。歌の向けられる相手をその場に欠いたまま、歌う私の自我ばかりが肥大している。"I love you"という求愛の呼びかけは、くるりと向きをかえて、虚空へと消えてしまい、"you" には届かない。ぶざまだね。悲しいね。でも、ノッてるね。