テンコウセイだらけの教室


 唐突ですんませんが、理想を説く効用というのは、それが言行不一致をもたらすことにあると思われるのである。


 以下、過去語りは、補助線として引いたデッチアゲ半分のお話ですので、割り引いて読んでくださいね。まあ、本気にせんと思うけど。
 たとえば、「人権の尊重」ということを、かつて学校やマスメディアを通して教わったものである。いや、まじで。それはむかしむかしのお話です。
 で、教師などが人権を尊重するかというと、けっこう侵害したんである。だもんで、若い者は反発するわけですよ。「てめぇ、言っていることとやってることが違うじゃねえかよぉ」と。「不正義」をことわける感覚っつうのは、こうして培われるぶんが大きいのではないかと思うのです。「うんどぅりゃあ、おみゃあのやってることは欺瞞じゃい!」てなもんです。であるからして、戦後の「公民」教育の功績はまんざらなくもないのである、と思う。
 すなわち、若人は原理主義者になることで、わが師に恩と怨を返そうとするわけですね。「仰げば尊し」、美しい師弟間の光景です。


 もっとも、「日教組のアカ教師」とかっていうのは、すくなくとも80年代後半においてはすでに、右翼と保守論壇がおのれの拠り所=仮想的として肥大化させたフィクションにすぎなかったと思う。リッパな「アカ教師」なんてむしろレアな存在で、たいがいの教師には「人権」とか「民主主義」なんて感覚はなく、形骸化した教科としての「公民」があったというだけの話。
 それでもおもしろいことに、教師には「人権」感覚が皆無であっても、カリキュラムと教科書に沿った授業をするのですね。暴力・イジメ・持ち物検査・セクハラ・「内申書」をたてにした恐喝等の行為を率先して行なう教師がいっぱいいても、教科書通りに「日本国憲法の三大原則のひとつは、基本的人権の尊重であって」な〜んて授業が行なわれるんザマスわ。「これテストに出るからな」なんつって。「現実」が「理念」に対して(「『理念』が『現実』に対して」じゃなくてよ)矛盾しているという事態が明らかだった。それが私が呼吸した80年代後半にはかすかに残存していた空気って感じがする。
 「キーッ、オトナってずるい。うそつきだ。信じられない」と思ったものだが、私もそんなずるくてうそつきなオトナになりました。だから、私は学校のセンセじゃないですが、ここに高らかに「人権は尊重すべきだ」って宣言しようと思います、まじで。ワコウドよ、チミたちの人権は尊重されなければならない。


 なんで以上のような嘘っぱち半分の昔話をしたかと申しますと、近ごろじゃあ「人権の尊重」などという理念そのものが「欺瞞」「偽善」と言われかねない、そのことについてちょっと考えてみたいと思ったからである。もちろん、そんなふうに理念をかざすことは、私の考えでは最初に述べたとおり、言行不一致をもたらすことにこそその効用がある。だから、そこに「欺瞞」「偽善」の匂いをかぎとられるのもしかるべきことと思う。
 しかし、「欺瞞」「偽善」の感覚が発動するメカニズムは、た〜ぶん、と〜てつもない勢いで変わりつつあるような、それでいて「これって、どこかで見たなじみの光景じゃね?」という感がある。わたくしの理解では、「欺瞞」とは、タテマエをたてながら、それに反する行為をなすことをばいうのであります。つまりは、タテマエではなく、行為が欺瞞であると。
 ところが、近ごろよく使われる「人権派弁護士の偽善」*1とか「プロ市民グループの欺瞞」*2とかの言い方というのは、タテマエと行為の不一致を問題にしているのではなさそうだ。私のヲチした印象ですが、むしろ「現実」から乖離したタテマエを発する人に向かって、この「欺瞞」とか「偽善」とかのことばが投げかけられているように思う。


 とするとですよ。あんれまあ、どこかで見た光景のような気が……。これってさあ、「ネットウヨ」なんて新しいレッテルを貼らなくても、古式ゆかしきわが国の伝統文化たる「転向」の問題と考えることもできるんじゃないですか。「プロ市民」なんてののしり方は、転向した元左翼がかつての同志を批判する口ぶりにそっくりじゃないっすか。