自然体な「ボク」ちゃん
毎日新聞のサイトより
現行の文体が翻訳調なのに対し、新たな前文は正しい日本語で平易でありながら一定の格調を持った文章とする。
だってよ……。自民党新憲法起草委員会の前文小委員会がまとめた要項要旨より。
詳しい議論のプロセスは知らないけど、自民党のサイトをみても、前文に関して、文体とか「美しい日本語」とかに言及する発言をいくつか拾うことができる。
何年か前に、やはり自民党の議員が「憲法は美しい日本語で。村上春樹さんあたりの日本語の達人に書いてもらったらいいんじゃないか」という趣旨のことを言っているのを読んだことがある。
「自主憲法」の制定を唱える人が、現行憲法の「翻訳」的な文体を問題にするというのは、かれらの自我のありかたを示唆しているようで興味深い。まあ、そこで村上氏を引き合いに出すのは、「そんなこと言ってて、あんたほんとに村上春樹読んだの?」といぶかしく思うのである。
だって、村上春樹の文体はあからさまに「翻訳」的なのだから。そして、それは意図的・自覚的なものであるはず。
「翻訳」と無縁なピュアな文体なんてありえない。
たとえば外国語の習得をこころみるとき、そんなピュアさの錯覚がどう獲得されるのか、(追)体験することができる。
「こんにちは。私は日本の出身の中学生です。私は今、日本の文化について紹介するつもりです。私は京都がとても好きです。京都にはたくさんの見るべき場所があります」
「あなたには姉妹がいますか」「はい、そうです。私は1人の姉妹がいます。彼女は長い髪の毛をもっているところの女の子です」
こんなふうなぎこちない「直訳」から始まって、より「自然な日本語」への「意訳」を試みるにせよ、日本語への翻訳を介さない「英語そのもの」の理解力を修養しようとするにせよ、学習者は言語とのあいだの不自然さを消そうと努力する。「自然さ」をつくろおうとするその努力は、作為的にしか遂行されえない。私たちはいつしか自然にふるまうことを忘れてしまうのではなく、自身の行為の不自然さ・作為性を忘れようとする。
「外国語」ではない「母語」にしても、事情はかわらない。私たちは「自然な日本語」を獲得するのではなく、自分たちが現に語り聞き書き読む言葉を「自然な日本語」と感じるよう、感覚の方をアジャストしている。
もちろん、そのこと自体責められることではない。感覚を鈍磨させずに生きていくことはできない。
しかし、言葉の不純さ、文が翻訳性を含んでいることをヒステリックにわめきたてる幼稚さは、どうだろう。かれらは、「かつて自然にふるまっていた」と彼らが考えるところの、干渉されない「純粋さ」の回復を夢見る。
いいかい、ぼうや? もう帰れないんだよ、ママンのお腹には。
ねえ、ぼうや。ボクのものではない言葉とつき合っていくしかないんだよ。
いやおうなく流れ込んでくる他者の思考、けっして私的に所有できない文体に語らされながら、でも語ろうとするしかないんじゃないか。
それが、君たちの大好きな「公」ってことじゃないのか?
現行憲法が「占領下」でアメリカに「押しつけられた」憲法だからって、「自主憲法」を制定しなければならないって? 幼稚だね。
言葉を所有し支配するなんてことは、だれにもできない。だから、それをアメリカが「押しつける」こともできないし、「自主憲法」なんてものもありえない。
改憲を論じるのは、したけりゃすればいいんだけど、「ボクのものになってないから、ボクのものにする〜」「自然にふるまってたあの日のボクに帰りたい」てんじゃ、そりゃ「伝統」とか「国柄」とかいう虚構をもちだすしかないわな。自然体の「ボク」なんて、実のところ空っぽなんだから。